先週紹介した山家学生式は、「国宝とは何ものぞ」という問いかけから始まっています。この文章は最澄が「国の宝」といえるような人物を育成することが、国家のために不可欠であると説いたものです。世にも珍しい宝物がいくらあっても、そのようなものは国宝ではない。「一隅を照らす」人こそが国宝であると言っています。「一隅を照らす」については先週話しましたが、山家学生式ではもう一つ別の表現を使って「国の宝」を説明していて、これは私の気に入っている部分でもあります。

能く言いて行うこと能わざるは国の師なり
行動することが苦手であっても、話をすることに秀でており、人々に正しい考えを示すことが出来る人は「国の師」である。

能く行いて言うこと能わざるは国の用なり
話をすることが苦手であっても、率先して行動し人々の役に立つ人物は「国の用」である。

能く行い能く言うは国の宝なり
この二つを兼ね備えた人、つまり行動力があり、人を指導することにも長けている人が「国の宝」である。

これは現代においてもまったく違和感無く聞くことが出来ますね。「国の師」とは、先生やコンサルタントのようなものでしょうか。
「国の用」とは、ちょっとオタクっぽくて人とうまくコミュニケーションが取れないけれども、イラストがうまいとかプログラミングの天才であるといったような人でしょうね。
言行一致、話をさせても立派だし、行動もしっかりしている、このような人はどの業界でも重宝(やはり宝という字が付きます)されるでしょうし、リーダーとなるべき人でしょう。

さらに面白いのは、この後のくだりで、まともな話しも出来ず、行動力も無い人間は、「国賊」であると言い切っている点です。全体に優しい雰囲気の文章の中で、ここの部分だけかなりきついことを言っていますが、私には大変小気味よく感じられます。恐らく最澄自身もこのような「賊」に相当嫌な思いをさせられてきたのだと想像できます。

もちろん、本当の「賊」とは、悪意を持って人を傷つけたり殺めたりする者のことを言いますが、そのようなことは当時としても常識なのでこの議論の外であります。あえて無為無策+徒食の人を「賊」といっているのでしょう。たとえ人に迷惑をかけていなくても、悪意を持っていなくても、ただ食って寝て世の中に何の貢献もしない人はつまり「賊」であると言う事です。

ちょっと厳しい解釈ですが、せっかく万物の霊長たる人間として生まれ、外敵に襲われるたり、飢え死にするという脅威から解放され、自由に使える時間が相当量あるにもかかわらず、世の役に立つ努力をしないということは、それだけで罪深いということですね。折角の地球上の資源を消費して、他の動植物を殺して食べているのに、ただ漫然と快楽だけを求めて生きているだけというのは、エネルギーの無駄ということでしょう。

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