延暦寺
私が高校時代をすごした比叡山延暦寺は、伝教大師最澄が開いた寺(寺群)です。最澄が人材育成のための施設(大乗戒壇)の設立を桓武天皇に要望した際に表した「山家学生式(さんげがくしょうしき)」という文章があります。(下参照)

この中に「一隅を照らす」という有名な言葉があり、今でも色々なところで使われますし、天台宗のキャンペーンのようなものにもなっています。これは、一人ひとりが自分の持ち場で精一杯努力して明るく光り輝くことのできる人となり、世の中に光をともしていこうという意味です。

私が通っていた比叡山高校でも、毎朝の朝礼でこの文句を唱えさせられました。私がこの言葉を知ったのは中学生のとき、卒業アルバムに国語の先生が餞(はなむけ)に書いてくださったからです。この先生は柿本先生といって(国語の先生としてはぴったりな名前ですね)、私が比叡山に行くと知ってこの言葉を書いてくれたものと思います。しかし、当時の私はあまりこの言葉が好きではありませんでした。なぜなら、「狭い片隅を照らしても、たいして意味がないじゃないか」と思ってしまい、なんとなくこの言葉をみみっちいものと感じていたからです。この感覚は大人になるまで変わりませんでした。

実社会での一隅
しかし、自分で独立して会社を経営してみると、この「一隅を照らす」という言葉がまったく違って感じられるようになってきました。それは、自分自身が輝いて生きていくということが、並大抵なことではないとわかってきたからです。回りを見てください、そのような人はどのくらいいるでしょうか。また、あるときは輝いていても、それを持続することは大変難しいことです。輝いて生きるとは抽象的な表現ですが、具体的には「自分の目標を持つ」、「リーダーシップを発揮している」、「人々の役に立つ仕事をしている」、「社会や人々に違いを起こしている(良い影響を与えている)」というようなことかと思います。

一隅というのは言葉の感じから「隅っこ」というネガティブなイメージがあるので、私は最初、「一隅を照らす」という言葉に良い印象を持たなかったのかもしれません。しかし、オセロゲームでも隅を取れば有利になりますし、「角々に福あり」、または「角々に満貫あり」という言葉もあります。この場合の「一隅」は、重要なポイントという意味で捉えたほうが良いように思います。

人はそれぞれ立場も生まれ育った環境も違います。家がたまたま裕福であるとか、運が良いとか、タレント性があるとか、あるいは逆に本人に責任はないのに不幸な目に合う人もいます。しかし、他人と比較するのではなく自分自身の目標を持って前向きに生きていくことこそ、光り輝いた人生といえるのではないでしょうか。

山家学生式 天台宗ホームページより

国の宝とは何物(なにもの)ぞ
宝とは道心(どうしん)なり
道心ある人を名づけて国宝と為(な)す

故(ゆえ)に古人(こじん)言わく
径寸十枚(けい すんじゅうまい)
是(こ)れ国宝にあらず
一隅(いちぐう)を照(てら)す
此(こ)れ則(すなわ)ち国宝なりと

古哲(こてつ)また云(い)わく
能 (よ)く言いて行うこと能(あた)わざるは国の師なり
能く行いて言うこと能わざるは国の用(ゆう)なり
能く行い能く言うは国の宝なり

三品(さんぼ ん)の内(うち)
唯(ただ)言うこと能わず
行うこと能わざるを国の賊(ぞく)と為す

乃(すなわ)ち道心あるの仏子(ぶっし)
西には菩薩(ぼさつ) と称し
東には君子(くんし)と号す

悪事(あくじ)を己(おのれ)に向(むか)え
好事(こうじ)を他に与え
己(おのれ)を忘れて他を利(り)する は
慈悲(じひ)の極(きわ)みなり。

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