比叡山で生活するようになって2年目、そろそろ年の瀬という頃だったと思うが、師匠の師匠である叡南覚照師(以下、御前様)が大津の寺から京都の赤山禅院という寺へ引っ越すことになり、仕事が山ほど発生した。何年使われていなかったのか見当もつかないような古い食器類を熱湯消毒するだけで何日もかかった。お堂などもたくさんあったので、それらの中から物品を仕分け整理するのも大変で、出てきた不用品を焼却処分する焚火は何日も燃え続けた。この寺はそれまで小僧がおらず住職が一人で守をしていたようなものだったので、ずいぶんと荒れていた。したがって建物の中や外の掃除も半端ではなかったし、大勢の人員が駆り出されたので食事の準備も大変だった。われわれ小僧だけでは手の回らないことについては近所の人たちや信者さんたちにも随分助けられた。

そのような中、たまたま見つけ出した宝船の絵の古い版木が、実はとても貴重なものだったことがわかり後に新聞に載ったりもした。

そうこうして年が明け昭和54年の春休み。もちろん普通の学生は休日かもしれないが、我々寺の小僧はここぞとばかりに働かされる。このころは連日大津の寺から赤山禅院へ馬酔木(あせび)や竹などの植栽に使う樹木を移動していた。植木職人を3名ほど雇い、大物の樹木は彼らに任せるものの、小物は職人に指導してもらって我々が根回しから運搬までを引き受ける。とはいっても素人だからなかなかうまくいくものではない。根っこの周りをスコップで掘り下げていき、根っこを包み込むように荒縄で巻いていく。この巻き加減に独特のコツがあり、土を崩さず上手に巻き込んでいくことができれば木を移植しても元気に根付くのである。私は力がないのでスコップで掘る作業には時間がかかったが、なぜか縄を巻くことについては飲み込みが良かったらしく、職人にも気に入られて植木職人になるよう親方からリクルートの誘いを受けたりした。

そんな折、大津の寺で陣頭指揮をしていた御前様が、竹藪の竹をひとまとめに持って行きたいと言い出された。赤山禅院の金神様のお宮の周りに植えたらいい雰囲気になるとイメージされたようである。その命令どおりに私や職人の人たち、兄弟子たち数人とで手分けして竹を数十株も根回ししたであろうか。あとはトラックに積むばかりになって道路わきに竹の株を横たえて置いたところへ御前様が現れた。いやな予感と緊張感を皆は感じ取っていたと思う。大体何か仕事をしているところへ師匠や御前様が現れて、あまりいいことが起こったためしはない。何かにつけ叱られ、どつかれるのはこの当時の小僧の宿命である。

横たわっていたそれぞれの竹をしばらくの間チェックした後、予想通りの怒声が起こった。「この竹を掘ったのは誰や!」。幸いそれは私のではなかった。繰り返すが私は職人からも褒められるほど根回しは上手かったのだ。指摘された竹は兄弟子の行照さん(現在は上原行照大阿闍梨)が根回ししたもので、ほとんど土は落ちて根っこが干からびた牛蒡のように露になっており、私が見てもこれはひどいなという出来だった。行照さんは御前様に長く仕えている直弟子なのでこのあたりはいつものこととばかり、「はい、私です」と言って前へ出た。とたんにボカンとゲンコツが振り下ろされた。「こんな竹、植えても根付くと思うのか、このたわけ!」。

その後どこまで叱られるかと私は正直ビビっていた。怒りの矛先がこちらへ来るのか、それとも全員で御前様がいいというまで別の竹を掘らされるのか。すると、御前様はもう一つ別の竹を見て「これは誰がやったんや?」と仰った、それこそ私が根回しした竹だったので反射的に「来たっ」と思って覚悟しながら「私です」と返事したが、私にかけられた言葉は予想とは全く違って「これが1番よくできている」というお褒めの言葉であった。「わしはどれが誰のものかは全く知らんし、中には職人さんのものもあるかもしれん。だが、その中でお前のが一番や。これならしっかりと根付くはずや」。私はうれしいのと、どつかれずに済んで良かったと思うのと、行照さんに申し訳ないなという複雑な気分であった。

それにしてもこの当時の小僧はよくどつかれた。私が御前様の部屋の掃除に入ったときのこと、小机がありその上に直径10cmくらいの大きめの虫眼鏡が置いてあったが、その鉄製の枠が大きくへこんでいるのを見て、よく小僧のKの頭をこのルーペで叩いているのを思い出した。鉄の枠がゆがむほどこれで叩かれたら相当に痛いだろうなとぞっとしたものである。

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