– 前回からの続き –
そんな寺での生活が始まって数カ月過ぎたころ、ひとりの新入りが入ってきた。といっても私よりもかなり年輩で、何か問題を起こして連れてこられた様子だった。大体このような場所に来るのは、家が寺の跡取りでもない限りは大概何かわけありに決まっている。その男はYといって、最初から我々を無視するようなよくない雰囲気を醸し出していた。おそらく最初から逃げ出すつもりでいたのであろう。前に話題にした、いつも私を苦しめたKが注意事項と称してくどくどとどうでもよい話を続けている間も、まるで右から左に聞き流しているようであった。このKがまた良くないのであるが、Yや周りの人たちに自分は責任者であるということをアピールしたくて、何度も同じ話をする。やれ怪我をしたら薬を出してあげますだとか、体調が良くないときは申し出ろだとか、わかりきったことをいうのである。そして話すことがなくなっても、彼の癖である歯の隙間から息を吸い込んで「シー」という音を立ててはまた同じ話を繰り返し、とどまることがない。あとで私の兄弟子(Kからみると弟弟子)に、ほかの小僧が入門してきたときにはあそこまで細々言わないのに、何でYに対してだけしつこく説明するのかと苦情を言っていたのを覚えている。
そしてその晩、寝付いたと思ったらすぐにたたき起こされた。案の定Yがいなくなったのである。寺は山の上に位置しており、さらに上にあがれば根本中堂などの堂宇があるばかりなのでそちらへ逃げてもどうしようもない。きっと無動寺坂と呼ばれる山道を下って町である坂本方面に逃げたに違いないという判断で捜索を開始した。無動寺坂はきつい坂で上りは1時間くらいかかるが下りならば30分くらいで降りられる。ちなみに小僧頭のTは「わしは10分で下った」というのがいつも自慢の種だった。私たちは懐中電灯を持たされて、Yの名前を呼びながら無動寺坂を下って行った。私は持っていた懐中電灯で当然のごとくに足元を照らしながら歩いていたが、それを小僧頭のTに見とがめられた。「下ではなく上を照らせ」という。聞くともなくTが私たちに教えてくれたのはこうである。「この手の人間は情緒不安定であるから、その辺で首を吊っている可能性がある。だから懐中電灯で上を照らして、人がぶら下がっていないかどうかを注意深く探せ」とのことだった。仮にそれでぶら下がっていたらどうすればよいのか、そんなものを見つけるのは恐ろしくて嫌だと思ったが、結局そんなものは見ずに済んだ。Yは無事に逃げおおせて2度と現れることはなかった。
とにかく、今では笑って話せるが当時は恐ろしいところへ来てしまったものだと後悔した。親からは京都の全寮制の学校で、休みの日には神社仏閣など古都の名刹を訪ねて、なんて適当なことを言い含められて来たのであるが、一杯食わされた格好である。結局3年間一度も家に帰してもらいないどころか、休日と言えるのは1年目に肉鍋を食べにいかせてもらって半日遊んだのと、学校が甲子園に出場した時に応援に行った1日、あとは修学旅行と盲腸で入院したくらいで、それ以外は休むことなく働き続けた。だから会社を始めてから10年くらいは毎日夜中まで働いて、土日もどちらかは仕事をしたが、自分の好きなことをしていたわけだしなんにも苦しいとは思わなかった。