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私の生まれ育った昭和40年前後の蒲田。そのあたりはあちこちに町工場が見られた。住んでいた長屋集落の向かい側に1学年下のみっちゃんという仲の良い友達がいたが、彼の家も1階部分が工場で家族は2階に住んでいた。彼の家にはよく遊びに行ったものである。今でもそれを思い出すと、不思議とその家のにおいまでありありとよみがえってくる。

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1階の工場にはプレス機らしきものが並んでおり、作業服を着たお兄さんたちが油まみれになって働いていた。友達のみっちゃんはその工場の息子であり、私たちも友人であることから作業場のあたりをうろついてもそれほど邪険にされたことはなかったと思う。たまには面白い形の部品や磁石らしき鉄の棒をおもちゃ代わりにくれたりした。

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彼の家の前にはドラム缶が置いてあり、中にはドリルで穴をあけたときの鉄の削りくずのようなものがぎっちり詰まっていた。それらは鉛筆削り機で削った屑のようにぐるぐるとねじれた形で、切り口がかなり鋭いので子供がうっかり触ると怪我をする。しかし当時の大人たちはあまりそんなことは気にしていなかったし、子供のほうもそんな怪我は慣れっこだった。いまでは見かけなくなったが、駐車場や家の境界の柵にはよく父親などがバラ線と呼んでいる針金が張り巡らしてあった。これは有刺鉄線である。今では考えられないが、我々子どもたちは、そうした有刺鉄線を乗り越え、くぐりぬけて足や手を傷だらけにしながら遊んでいたのである。

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ドラム缶に一時保管してあった鉄の削りくずは、やがてオート三輪車によっていずこかへ運び去られる。そうした鉄くずを積んだオート三輪が荷台から油を滴らせながら元気よく疾走するのは日常の風景だった。あのフロント部分の象のような形状とショックアブソーバがむき出しの前輪は子供心に強烈な印象として焼き付いている。

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溶接のスパーク、グラインダーの火花、油のにおいや機械の奏でるヘビーメタルなサウンドを物心つく前から五感に叩き込まれた私は、自然と物を作ることに関心を持つようになった。父の親友でOさんという木型職人がいた。私はまだ幼かったので覚えていないが、母に聞いた話である。

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父に連れられてOさんのお宅に行ったとき、父は何かの用事で私を残してしばらくよそへ出かけたそうだ。私は一人Oさんの作業場でその仕事を興味深く見ていたそうだがそのうち、「あれはなぜ?」、「これはどうして?」といろいろとしつこく聞き始めたそうだ。

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最初は適当に答えていたOさんだが、そのうちOさんも職人だし、仕事の邪魔をされるとだんだんイライラしてきたのだろう。といって相手は年端もいかない子供だし、知り合いの息子でもあるから手を上げるわけにもいかない。

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そして、用事を終えて帰ってきた父親は私の顔を見て驚いた。私の鼻の下に髭が描かれてあったからだ。いらいらしたOさんが、腹立ちまぎれに墨つぼの墨で髭を書いたのだった。そんな子供だったから、後にエンジニアになったのは至極当然のことである。

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