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バックボーン – 2/3

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話を就職活動に戻そう。コンピュータエンジニアになりたいと思うのであれば、なにかそう思うだけの理由があるはずだし、声優になりたいとかゲームクリエイターになりたいという人たちだって、ただ流行りだからとか、かっこいいからなどというだけでそれを職業に選ぶほど安易ではないだろう。

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面接をしていると、このバックボーンが見えない学生が多い。バックボーンのない人間なんて、私からみれば異界から飛び出してきたお化けようなものである。しかし、彼ら、彼女らはそれを表現する能力が欠けているか、自分のことをよく見つめなおしていないだけであろう。そう、バックボーンは誰にでも必ずあるのだ。これから就活をしようという学生さんは、自分のことをしっかり分析する必要がある。

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自分の長所は何で、それはなぜそうなったのか、自分の価値観はどういう経験をしたから身に付いたかなど、自分のことではあっても時間をかけてじっくりと見直さないと、意外に自分のことは見えていなかったりするのである。これは、学生に限らず、社会人でも同様で、ビジネスの場でもプライベートでも、自分を知らない人に自分を紹介する時には自らを語ることができるストーリーが必要になる。

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学生さんは、ぜひ自分自身のことをPRするホームページを作ると仮定して企画を考えてみるとよい。自分のどのようなところが売りで、どのような実績を持っているのか。強みは何で弱みは何か。そしてどのようなことをやりたいと思っているのか。良い面も悪い目もきちんと説明のつく形で表現しないと相手は信用してくれない。

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これは企業ホームページでも同じ。初めてホームページを作る会社は、それを作成するにあたり意外に自社のことを知らないことに愕然とする。経営者自身が、自社の強みや特徴、取り扱っている商品がどういうもので、顧客にどのようなメリットを与えるのかという説明ができなかったりするのだ。

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昭和の思い出3 – 物干し作り

朝礼でのスピーチではありませんが、番外編として掲載します。

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これは私が4、5歳のころつまり昭和41、2年頃の記憶である。
その日は何か特別な日だったのか、同じ長屋の住人達が集まって何かを始めようとしていた。場所は長屋の真ん中を貫く私道である。そこは洗濯物などを干す共有スペースであり、私たち子供の遊び場でもある。

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そこに七輪と大きなやかんが置かれ湯気を出していた。たぶん屋外に置かれたやかんを見たのはそれが初めてだったであろう。そして傍らには竹竿が何本も置かれていた。私は子供心に一体これから何が始まるのかと興味津々だった。お祭り以外でこれだけ大人が集まって何かをするのを見るのは初めてだった。皆は、大騒ぎしながら何かの準備をしているようだった。

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それからややしばらくして、それは始まった。
長い竹竿に、それよりも長くて青いビニールの袋をすっぽりとかぶせた。しかしそのビニールの袋は竹の太さに比べてかなり太かったので、だぶだぶのズボンのようだった。このままでは何のためにそんなことをしているのか見当もつかなかったが、そのあとの魔法のような手順をみて、何が出来上がるかすぐに分かった。そのぶかぶかの袋をかぶった竹竿を数人が持ち、一人がやかんをもってそれを待ち受けた。

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「それっ」という掛け声とともに、竹竿を持った人たちが竹を突き出すように走り出す。やかん係が湯を注ぐ中を竹が勢いよく通り抜けていく。すると、ぶかぶかだった青いビニールの袋が見る間に縮んで竹に密着し、それは普段見なれた青い物干し竿になっていた。
竹竿の頭から尻尾まで一通り湯をかけ終わると、両端の余ったビニールを多少余裕を残してハサミで切り、はみ出たビニールを竹の中に押し込んで一本上がり。こんな具合で立派な物干し竿が出来上がった。

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それからいつまで続いたのか、何本作ったのかは憶えていないが、その後、この長屋の共同物干しには出来立ての真っ青な物干し竿が空中に横たわっていた。
長屋の住人たちが協力して物干し竿を作る、それだけのことではあるが、今の東京ではなかなか見ることのできない情景であろう。ほのぼのとした楽しい思い出の一つである。

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2009年3月24日 | コメント/トラックバック(0) |

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休み

この日は休暇です

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バックボーン – 1/3

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新卒採用のセミナーで就職活動中の学生によく話すことであるが、自分がなぜその業界を選んだのか、なぜその会社を志望したのかという理由を、面接の際にはしっかりと自分のバックボーンと絡めて説明できるようにしなさいと言っている。

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面接の時に、なぜこの業界を選んだのですかと聞いても、どうも納得のいく回答が返ってこないことが多いからである。特に文系の大学生に多いが、「なぜIT業界を志望したのですか?」 という質問に対して、「就職活動を通していろいろな業界を見聞きするうちに、コンピュータの仕事がおもしろいなと感じるようになりました。」といった答えである。こちらは、「エッ? じゃあここ数カ月のことじゃないの、それまでは別に興味なかったの?」という疑問がわいてくる。

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物事に興味を持つのは何がきっかけでもよいけれど、ソフトウェアの開発の仕事に就くということはエンジニアになるということで、いわゆる職人になるということだと私は思っている。たとえば、「会社訪問でオフィス街を歩いているうちにたくさんの高層ビルを見かけました。それらを見ているうちに、ビルを造る仕事というのはきっとやりがいがあるだろうなと思い、建築業界に入りたいと思いました。」といって、それまで設計の勉強もしたことがないのに設計事務所に応募するようなものだ。

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ちょっと安易じゃないの?と言いたくなる。別に20歳過ぎてからITに興味を持ち、プログラマになりたいと思い立ってもかまわないが、こちらを納得させるだけの背景というのは説明してもらいたいものである。

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人間は、ただ木の枝になって育ってきた果物とは違い、誰にもバックボーンというものがあるはずだ。その人が育った家庭や地域の環境、学校やクラブ活動などでの体験、読んだ本や人から聞いて感銘を受けた話などがその人の人格、行動パターン、価値観、倫理観などを決定づけるバックボーンとなるのである。

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私が英語で「バックボーン」と言うのにはわけがある。毎年夏のサイパン島への慰霊法要にボランティアとして行くようになって20年以上になるが、ある年の活動のとき。中学生と高校生40人ほどを引率してサイパンへ1週間ほど滞在するが、宿泊先は毎年恒例となっている現地の中学校、HopWood Jr. High Schoolの教室である。その年はたまたま事前に校長に挨拶する機会を得た。日本からのお土産を持って校長室に入ると、ちょっと想像していた人とは違う紳士が立って迎えてくれた。

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私が想像していた、明るくフレンドリーだけどちょっといい加減なチャモロ人ではなく、威厳のある折り目正しい感じの中年男性だった。中年になるとでっぷりと太る人が多い中、彼はがっしりとした無駄のない体格で、精悍な顔つきをしていた。そのような彼を見て少し緊張して話を伺ったが、そんな私のことを見透かしたように、彼はこう言った。「私は学生たちからは少し厳しく見えるかもしれません。なぜなら、陸軍出身というバックボーンがあるからです。」なるほど、話し方といい、背筋をきちんと伸ばした姿勢といい、言われてみると軍人の雰囲気がたっぷりと出ているなと感じた。その時に、彼の言った「バックボーン」という言葉が彼の姿とともに印象に残って忘れられなくなっている。

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そう、人間はバックボーンがあり、そして今そこに存在している。昔軍人だったから強面である。そうした人が無理にフレンドリーなふりをする必要はない。小さいころ両親や親類にたくさん愛されて育ったから無類の子供好きであるという人もいるだろう。子供のころ強烈ないじめにあい、辛い思いをしたから、ボクサーや格闘家になって見返してやりたいと思う人もいる。ずっと以前の幸せな思い出や大きな心の傷、そういったものがその人の人格を形成する素となっている。不幸な経験であっても、それを自分の良い性質を形作る要因として生かすことができれば、それはその人の素晴らしい個性となる。

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誕生日

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今日はたまたま誕生日なので、少し振り返ってみる。
例えば10年前は何をしていたか思い出してみると、事務所を現在の場所に移転した時期である。それまでの事務所は駅には近いものの、かなり狭くて満足な会議室もないような状態だった。移転する数年前に、このビルにMacintoshの出力センターのようなものが入っていて、訪れたことがある。当時はこのビルが出来てまもなくで、真新しいオフィスビルを見て、こんなところに入れたらいいのになあと思ったものである。

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そのころ、自分たちの体力に比するとかなり規模の大きい仕事を引き受けて、恐ろしく苦労した時期ではあったが、そこそこ利益も上がったので、前に目をつけていたこのビルが空いたと聞いて、ちょっと無理をして契約をした。このちょっと無理をしてというのが微妙で、無理をしないといつまでも成長しないし、無理をしすぎるとコケてしまう。

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会社を興して最初の事務所は立川のパン屋が入っている木造の2階であった。歩くとギシギシと音がする10坪程度の空間だった。そこの建物の大家さんは、すぐ近所にお住まいの大手電機メーカJ社に努めているという老紳士であった。その彼が、入居の時かあるいは蒲田に移転するので出て行く時かに、ちょっと話をしてくれた。その老紳士曰く「『蟹は自分の甲羅に似せて穴を掘る』と言いますが、会社の場合でも無理をせずに自分の身丈に合った場所を借りるようにしなければいけませんよ」と戒めてくれた。今でもときどき思い出す言葉である。

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さて、20年前はどうだったか。
自分で独立して会社を始める1年半前である。当時はまだ勤めていたのだが、この会社は私がフリー契約で富士電機の仕事をしていた時に間に入ってくれていた会社で、いずれ独立するという前提条件付きで入社したのだった。このころは独立する決心を固めるために色々と心が揺れていた時期である。自分では独立したいと思っていたが、いま一つそれが決意となり行動につながらない時期でもあった。

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上司である直属の部長や、私を入社させてくれた元社長(その後会社はM&Aによりこの社長は常務となった)に相談はしていたが、私のほうもいま一つ決意が弱かったせいか、独立するということについて「若いうちにそうした意欲を持つっていうのはうらやましいね」などと半分褒めてくれながらも、それほど本気にもとらえてもらえなかった。

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会社でSEの仕事をしていると日常の日々が忙しくてなかなか具体的に動くことができない。それでも、勉強会に参加したり、色々な人に出会ったりと、自分できっかけ作りをして何とかテイクオフしたという感じだった。自分で会社をやりたいという思いと、自分にできるのだろうかという不安。このまま勤めていたらなんとなく30歳になってしまうという焦りと、このまま会社員でいた方が丸く収まって親も会社も安心してくれるのではという打算などに揺れていたことを思い出す。

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話は脱線するが、子供のころ家に「仏教まんが」というシリーズが何冊かあってよく読んだものである。お釈迦様の生まれたときから出家までの話や、ダイバダッタに修業を妨害されたり愚者のパンタカに悟りを開かせたりといった逸話をまんがにしているのだが、当時小学生だった子供の私には結構重たい話が多かった。

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その中にこんな話が載っていた。ある王国に鳩の肉が大好きな王様がいて、おりしも数羽の鳩が捕えられてかごの中でふんだんに餌を与えられていた。うんと太らせてから食べるためである。しかし鳩たちはその境遇にすぐに慣れて、おいしい餌を毎日食べられることを喜んでいた。一匹を除いては。しかしこの中の1羽の鳩だけは違っていた。彼はかごから出たい、もう一度大空を自由に飛びたいと熱望して一切餌を口にしなかった。それから何日か過ぎ、太って食べごろとなった仲間の鳩は次々に料理されていく。一方、外へ出たいと餌を食べずに痩せこけた鳩は、食べごろにならないのでかごの中に置かれたままとなっていた。そしてついに、籠の隙間から抜け出せるほどに痩せた鳩は、そこから脱出することができた。仲間の鳩はそれを見てしきりに自分の浅はかさを嘆いたが、すでに太ってしまった鳩たちは料理されるだけである。

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この話はここまでだったが、色々と考えさせられる話である。餌を食べずに逃げ出した鳩は幸せに暮らし、めでたしめでたしといえるのだろうか。外に出れば外敵も多く、痩せて弱ったハトは猛禽の餌食になるかもしれない。外の世界というのはそれほど甘くはない。しかし、かごの中で飼殺しにされるよりは、野たれ死んでも、他の動物に食い殺されても自由の方が良いと望む気持ちもよくわかる。

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たとえば自分が豚だったとして、毎日食べたいだけ食べて、外敵の心配なく安心して眠れる養豚場で幸せに5年生活して、そのあと苦しまずに処分されて食肉になるのと、外敵だらけで食うものもろくになく10頭のうち1頭しか生き延びられない過酷な山の中で野生の豚として過ごすのとどちらを選ぶだろうか。外敵に襲われて生きながら食い殺される確率が80%だったとしたら。私には簡単に答えは出せない。(余談だが、牛や豚は人に食されることで絶滅せずにDNAを保っているのかもしれない、人間にとって美味と思われることが種の保存につながっているのだとしたら、などと考えたりもする)
重くなるので話を戻そう。

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さて、これからの10年はどうであろうか。
すでに40代も残り数年となってしまった。20歳で社会に出てすでに30年近くがあっという間に過ぎた。60歳まで現役で働くとすると、あと数年で最後の10年(Final Decade)に突入する。この数年はそのFinal Decadeへの準備期間だと思っている。この最後の10年は、下請けではなく自分たちの商品やサービスを確立し、自分たちのビジネスのために働くというのが私の願望である。

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子どもの能力

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先日(2009年2月14日)、子供二人を連れてクリーニング店へ行こうとして駅前で信号待ちしていた。すると、それまでも繋いでいた手を振り切ってちょろちょろしていた下の娘が、また勝手に一人で離れていってしまった。すぐに戻ってくるだろうと思っていたがそのうち姿が視界から消えてしまった。上の子にここで待つように言って彼女を探し始めたが、逃げ足の早い彼女はどこにも見当たらなかった。しばらくそのあたりをうろうろと探したが全く見つからない。上の子は、「一人で家に帰ったんじゃないの?」というが、下の娘はまだ4歳で、一人で街中を歩かせたことなどこれまでになかった。

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しかし、そこにいつまでいても仕方がないので、上の子が言うようにまずは自宅に戻ってみることにした。家にもいなかったら警察に届け出ようと覚悟していた。しかし、戻ってみると、自宅マンションのエレベータ前にちゃっかりと彼女は立っていた。どうやってここまでの道を覚えたのか不思議だった。彼女が戻った道は普段通う道ではなかったからである。

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そんなことがあり、自分が幼稚園児だったころを思い出した。彼女と同じ4歳か5歳のころ、幼稚園の遠足か何かの行事があり、その帰りのバス。家まで送ってくれるかと思っていたら途中で降ろされた。そこでは数人が降ろされ、迎えの母親たちが待っていたが、私の母親はそこにはいなかった。

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ずっと後年母から聞いた話では、その日何か用事のあった母に代り、近所の同級生の母親が、代わりに迎えに行ってくれることになっていたらしい。ところが、その人が時間に遅れてしまい迎えに間に合わなかったということだ。しかし、私はここからなら自分で帰れると思って勝手に一人歩いて帰宅してしまった。もちろん、それまで歩いたことなどないルートだった。バスを降りたのが春日橋あたりで、自宅まではおそらく1Kmくらいだろうが、当時でもかなり交通量が多い道のりである。途中で誰かに道を聞いたり、信号を渡らせてもらったりした記憶があるが、平然と家に帰ってきた。

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親は相当驚いたし、幼稚園のほうでもあわてていたようだ。私一人が行方不明となり、しばらく捜索していたらしい。ややしばらくしてからそのバスが自宅前に到着したので、手を振って迎えに出た。「なんだ、今頃ついたのか」と言わんばかりに誇らしげにバスを迎えたのを覚えている。きっと私の心配をしてわざわざ寄ってくれたのだろうが、私一人はどこ吹く風という態度だった。

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そう考えると、自分で言うのもなんであるが、子供は4歳5歳でも親が思うよりもしっかりとしているものである。普段親と歩いたりしているうちに結構道順も記憶しており、チャンスがあれば一人で冒険したいと思っているのである。今これを書いているうちに思い出したが、私もそのようなチャンスを待っていたような気がする。

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私は大人になって相当な方向オンチとなった。20歳か21歳で初めて車を購入した。地元の級友から中古車、トヨタのコロナを10万円で買ったのだが、それを実家の池上から住まいのある日野まで乗って帰るのに丸1日かかってしまったことがある。日野へは20号をひたすら走っていけばよいのだが、私の頭には多摩川を超えたらそこは東京ではないという思い込みがあった。あとで考えるとそれは日野橋だろうが、それを渡ったときに多摩川、一級河川という標識を見て、「しまった、神奈川県に入ってしまったぞ」と思い込み、すぐに引き返して西へ向かった。しかしそこにはめざす日野市はなかった。そしてまた引き返し、日野橋を何度も渡ったり戻ったりして、車を止めてよくよく地図を見て驚いた。日野市は多摩川を超えた南側にあるのだということを。

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子供のころは今と違って高所恐怖症でもなかったし、方向音痴でもなかった。大人になると、なにか余計な恐れや不安とあいまいで中途半端な知識が身について、本来持っている動物的感覚をスポイルしてしまうようである。

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