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時間を大切に目標を持って生きる

2006年が早くも暮れようとしています。
私にとってはあっという間だったように感じられます。年をとるにつれて1年がどんどん短く感じるようになると、よく言われますが本当にその通りだと思います。
今年は準備、準備というつもりでやっているうちに1年が過ぎてしまったようです。いつになったら本番の動きができるのか、今のところは予想できないのが正直なところです。

今私はビジネススクール大学院の2年なので修士論文を書いている真最中ですが、来年2月5日の期日までに間に合うかどうか正直不安を感じています。同級生の仲間の一人が、「正月は休み返上で修論に取り組む」と意気込んでいました。私もそのつもりだし、そのように意気込む気持ちもよく理解できます。しかし自分の体験上、正月休みを当てにしてもなかなか思ったようにはいかないと言わざるを得ないのです。

私が今回大学院へ通うことができたのも、会社の経営戦略的な事柄を検討したりすることができるようになったのも、実はここ数年のことです。それまでは自分が先頭に立って設計からプログラミングなどをしていたので、仕事をこなすだけで精いっぱいでした。仕事時間中は部下の作業のチェックなどで終始し、誰もいなくなった夜間や休日に、次にやらせる仕事の準備や、リスクとなりそうな問題の解決方法を模索するというパターンでした。会社を始めてから10年余りは、休日も関係なく毎日終電近くまで働いていました。

そのような時代、世間が休みとなるシーズンは、たまった仕事を片づける絶好のチャンスでした。連休、ゴールデンウィーク、盆休み、そして正月休みが近くなると、普通の人とは違う意味でワクワクしました。休みになったら、やろうと思っていた仕事のうち、あれもしよう、これもしようとまさに意気込んでいたのでした。しかし、実際にやってみると1日1日はあっという間に過ぎてしまい、気がつくと思ったことの1/10もできていないのが現実でした。

したがって、今回の修論については期限が残り1カ月余りとなりましたので、極力そちらに集中したいと思っていますのでご協力のほどよろしくお願いいたします。ちなみに私の通う大学院は「アントレプレナー専攻」といい、事業を起こす人を育てるのが目的であり、その卒業のために必要となる修論は事業計画を書くことが求められます。私の場合、ITビジネスではなく、医療分野をテーマとしました。この事業計画は実際に国土交通省へ提案するものとなりますが、詳細はまたあらためてご報告します。

さて、当初は本業であるシステム開発の仕事に忙殺されていた私ですが、この数年は次のステップへ進むための準備に時間を使うことができるようになってきました。大学院へ入学したことも単なる個人的な興味ではなく、実際のビジネスで役に立てるためであります。すでにコンソーシアムの設立や医療ビジネスでの事業計画など、いくつか仕事に関連した動きもすでに始まっています。こうしたことができるのも、支えてくれている皆さんのおかげと思って感謝しています。

さて、話は戻りますが時間は有限でありうっかりしていると、あっという間に過ぎてしまうものです。1週間は瞬く間に過ぎますが、1年は52週間しかありません。皆さんが現役で充実して活躍できる期間が30年とすると、あと1564週間しかないのです。

時間を大切にし、目標を持って生きることが必要だというお話で、今年の締めくくりとしたいと思います。今年もお疲れ様でした。

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決めたことを忘れずに実行する 2/2

– 前回からの続き –

植木を移す作業は当分続いた。大津の寺で掘り起こし、根回しをしている間に、京都の赤山禅院では別のグループが穴掘りをして準備をする。そして午前1便、午後2便という具合に植木を積んだトラックが往復する。大物を吊上げるために動員したクレーンが転倒することもあったが皆不思議と怪我などは一切しなかった。でも風呂には10日に一度入れるかどうかという程度で相当に不潔であったはずだ。

春休みも終わりかけの4月5日、植木の作業もクライマックスとなっていた。この頃は雨がよく降ったように覚えている。連日泥まみれになって働いている我々を見て、ある信者さんが御前様にこう尋ねた。「こんな雨の日に作業させるのは可哀そうだし危険ではありませんか?」。それに対して御前様はこうお答えになった。「どんなことがあろうと、決めた日に決めたことをしないと人間がだらしなくなる」。

当時の私は、この話を大したこととはとらえておらず、たまたま日記に書いたので忘れずにいたのであったし、「決めたからって雨の日に外で働かされるのは迷惑な話だな」程度にしか思っていなかったはずである。しかしこの言葉は非常に大切な意味を持っていると後にして思うようになった。

社会に出て仕事をするようになると、自分がやるべきことをきちんとやれるかどうかが大変重要になってくる。学生のうちは宿題を忘れようが友達との約束をすっぽかそうがそれほどの実害はないが、社会人となるとそうはいかない。言ったことをきちんとやれるかどうかがその人の評価になるし、もっと怖いのは自分が自分に対して持つ評価、セルフイメージに直接関わってくるからだ。

友達と何か約束をしたのに忘れたり、直前になってなんだか面倒臭くなってほったらかしたり、自分の不注意で約束の時間に遅刻したことは誰でも思い当たることがあると思う。この時に自分を責めたりしないだろうか? あるいは「またやってしまった」とか「俺はやっぱり駄目なんだ」とか。また、自分を悪者にしたくなくて責任転嫁を図ったりしても結局は自分に嘘はつけない。こんなことが続くとセルフイメージがどんどん低くなっていく。これは自分自身を傷つける行為となる。逆に、たとえ些細な約束でもきちんと守ることができると、自分自身に対する評価が高まり、人からも評価され、結果的に自信が生まれてくる。

私が社会人になって色々な書物に接する中、「やろうと思ったことを紙に書く」ことが想像するよりもはるかに大切であると紹介する内容を散見するようになった。能率手帳などにも必ずTODOリストがある。決めたことをきちんとやれる人の中で、強固な意志と記憶力を持っており、紙に書かなくても必ず実行できるという人はほとんどいないと思おう。大多数の人たちは、やり方はいろいろかも知れないが必ずやろうとすることを記録しているはずだ。これは簡単な習慣だからやっていない人はぜひ試して欲しい。こんな簡単な投資(紙と鉛筆?)で、得られるものははかり知れない。

TODOリストに書いた項目を1つ1つ実行して、チェックをつけていくにつれ自分はこれだけやれるのだという自信が生まれてくるだろう。先の御前様が言いたかったのもこれだと思う。なにも雨の日に無理して実行するのが必ずしも大切というわけではないと思う。雨の日に作業をするのが危険ならば、最初から雨が降ったら別の日に実行するという計画にしておけばよいのであり、必ず実行するということこそが大切なのである。

今はPCでOutlookを利用していることだろうが、この中の「仕事」機能を使うのもよいアイディアだと思う。メール機能しか使わないというのは非常にもったいない話である。あるいは古い名刺などをいつも持ち歩いて、思いついたらその裏にメモをするというのもお勧めする方法である。記憶というのは簡単に消えてしまうから、思いついたら記録するという行動の癖をつけることが大切なのである。

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決めたことを忘れずに実行する 1/2

比叡山で生活するようになって2年目、そろそろ年の瀬という頃だったと思うが、師匠の師匠である叡南覚照師(以下、御前様)が大津の寺から京都の赤山禅院という寺へ引っ越すことになり、仕事が山ほど発生した。何年使われていなかったのか見当もつかないような古い食器類を熱湯消毒するだけで何日もかかった。お堂などもたくさんあったので、それらの中から物品を仕分け整理するのも大変で、出てきた不用品を焼却処分する焚火は何日も燃え続けた。この寺はそれまで小僧がおらず住職が一人で守をしていたようなものだったので、ずいぶんと荒れていた。したがって建物の中や外の掃除も半端ではなかったし、大勢の人員が駆り出されたので食事の準備も大変だった。われわれ小僧だけでは手の回らないことについては近所の人たちや信者さんたちにも随分助けられた。

そのような中、たまたま見つけ出した宝船の絵の古い版木が、実はとても貴重なものだったことがわかり後に新聞に載ったりもした。

そうこうして年が明け昭和54年の春休み。もちろん普通の学生は休日かもしれないが、我々寺の小僧はここぞとばかりに働かされる。このころは連日大津の寺から赤山禅院へ馬酔木(あせび)や竹などの植栽に使う樹木を移動していた。植木職人を3名ほど雇い、大物の樹木は彼らに任せるものの、小物は職人に指導してもらって我々が根回しから運搬までを引き受ける。とはいっても素人だからなかなかうまくいくものではない。根っこの周りをスコップで掘り下げていき、根っこを包み込むように荒縄で巻いていく。この巻き加減に独特のコツがあり、土を崩さず上手に巻き込んでいくことができれば木を移植しても元気に根付くのである。私は力がないのでスコップで掘る作業には時間がかかったが、なぜか縄を巻くことについては飲み込みが良かったらしく、職人にも気に入られて植木職人になるよう親方からリクルートの誘いを受けたりした。

そんな折、大津の寺で陣頭指揮をしていた御前様が、竹藪の竹をひとまとめに持って行きたいと言い出された。赤山禅院の金神様のお宮の周りに植えたらいい雰囲気になるとイメージされたようである。その命令どおりに私や職人の人たち、兄弟子たち数人とで手分けして竹を数十株も根回ししたであろうか。あとはトラックに積むばかりになって道路わきに竹の株を横たえて置いたところへ御前様が現れた。いやな予感と緊張感を皆は感じ取っていたと思う。大体何か仕事をしているところへ師匠や御前様が現れて、あまりいいことが起こったためしはない。何かにつけ叱られ、どつかれるのはこの当時の小僧の宿命である。

横たわっていたそれぞれの竹をしばらくの間チェックした後、予想通りの怒声が起こった。「この竹を掘ったのは誰や!」。幸いそれは私のではなかった。繰り返すが私は職人からも褒められるほど根回しは上手かったのだ。指摘された竹は兄弟子の行照さん(現在は上原行照大阿闍梨)が根回ししたもので、ほとんど土は落ちて根っこが干からびた牛蒡のように露になっており、私が見てもこれはひどいなという出来だった。行照さんは御前様に長く仕えている直弟子なのでこのあたりはいつものこととばかり、「はい、私です」と言って前へ出た。とたんにボカンとゲンコツが振り下ろされた。「こんな竹、植えても根付くと思うのか、このたわけ!」。

その後どこまで叱られるかと私は正直ビビっていた。怒りの矛先がこちらへ来るのか、それとも全員で御前様がいいというまで別の竹を掘らされるのか。すると、御前様はもう一つ別の竹を見て「これは誰がやったんや?」と仰った、それこそ私が根回しした竹だったので反射的に「来たっ」と思って覚悟しながら「私です」と返事したが、私にかけられた言葉は予想とは全く違って「これが1番よくできている」というお褒めの言葉であった。「わしはどれが誰のものかは全く知らんし、中には職人さんのものもあるかもしれん。だが、その中でお前のが一番や。これならしっかりと根付くはずや」。私はうれしいのと、どつかれずに済んで良かったと思うのと、行照さんに申し訳ないなという複雑な気分であった。

それにしてもこの当時の小僧はよくどつかれた。私が御前様の部屋の掃除に入ったときのこと、小机がありその上に直径10cmくらいの大きめの虫眼鏡が置いてあったが、その鉄製の枠が大きくへこんでいるのを見て、よく小僧のKの頭をこのルーペで叩いているのを思い出した。鉄の枠がゆがむほどこれで叩かれたら相当に痛いだろうなとぞっとしたものである。

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下ではなく上を照らせ 2/2

– 前回からの続き –

そんな寺での生活が始まって数カ月過ぎたころ、ひとりの新入りが入ってきた。といっても私よりもかなり年輩で、何か問題を起こして連れてこられた様子だった。大体このような場所に来るのは、家が寺の跡取りでもない限りは大概何かわけありに決まっている。その男はYといって、最初から我々を無視するようなよくない雰囲気を醸し出していた。おそらく最初から逃げ出すつもりでいたのであろう。前に話題にした、いつも私を苦しめたKが注意事項と称してくどくどとどうでもよい話を続けている間も、まるで右から左に聞き流しているようであった。このKがまた良くないのであるが、Yや周りの人たちに自分は責任者であるということをアピールしたくて、何度も同じ話をする。やれ怪我をしたら薬を出してあげますだとか、体調が良くないときは申し出ろだとか、わかりきったことをいうのである。そして話すことがなくなっても、彼の癖である歯の隙間から息を吸い込んで「シー」という音を立ててはまた同じ話を繰り返し、とどまることがない。あとで私の兄弟子(Kからみると弟弟子)に、ほかの小僧が入門してきたときにはあそこまで細々言わないのに、何でYに対してだけしつこく説明するのかと苦情を言っていたのを覚えている。

そしてその晩、寝付いたと思ったらすぐにたたき起こされた。案の定Yがいなくなったのである。寺は山の上に位置しており、さらに上にあがれば根本中堂などの堂宇があるばかりなのでそちらへ逃げてもどうしようもない。きっと無動寺坂と呼ばれる山道を下って町である坂本方面に逃げたに違いないという判断で捜索を開始した。無動寺坂はきつい坂で上りは1時間くらいかかるが下りならば30分くらいで降りられる。ちなみに小僧頭のTは「わしは10分で下った」というのがいつも自慢の種だった。私たちは懐中電灯を持たされて、Yの名前を呼びながら無動寺坂を下って行った。私は持っていた懐中電灯で当然のごとくに足元を照らしながら歩いていたが、それを小僧頭のTに見とがめられた。「下ではなく上を照らせ」という。聞くともなくTが私たちに教えてくれたのはこうである。「この手の人間は情緒不安定であるから、その辺で首を吊っている可能性がある。だから懐中電灯で上を照らして、人がぶら下がっていないかどうかを注意深く探せ」とのことだった。仮にそれでぶら下がっていたらどうすればよいのか、そんなものを見つけるのは恐ろしくて嫌だと思ったが、結局そんなものは見ずに済んだ。Yは無事に逃げおおせて2度と現れることはなかった。

とにかく、今では笑って話せるが当時は恐ろしいところへ来てしまったものだと後悔した。親からは京都の全寮制の学校で、休みの日には神社仏閣など古都の名刹を訪ねて、なんて適当なことを言い含められて来たのであるが、一杯食わされた格好である。結局3年間一度も家に帰してもらいないどころか、休日と言えるのは1年目に肉鍋を食べにいかせてもらって半日遊んだのと、学校が甲子園に出場した時に応援に行った1日、あとは修学旅行と盲腸で入院したくらいで、それ以外は休むことなく働き続けた。だから会社を始めてから10年くらいは毎日夜中まで働いて、土日もどちらかは仕事をしたが、自分の好きなことをしていたわけだしなんにも苦しいとは思わなかった。

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