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学校の現場ではこうしたメンタリティがいまだに強く残っているように感じる。だから目立つような行動を控えるわけである。人に突っ込まれるような弱点を極力隠そうとする。よって学校のトイレで大便をしない。頭や口や体が臭いと思われないようにするために歯磨きや朝シャンを欠かさない。暗い性格と思われないようにむやみに明るくふるまう。友達のいない孤独な奴と思われることを恐れ、さして気が合うわけでもないのに友人としてつるむ。携帯電話のリストにはそのような希薄な関係の“名ばかり友人”がたくさん載ることになり、その数が多い少ないで競い合う。

空気を読んでものごとに深入りしない。授業中に先生に質問されても、最初に答えると人柱になる(ハズした回答をしてしまい後で笑いものになる)リスクがあるから誰も答えない。などという行動形態をとるようになる。

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そのような環境で長年にわたって生活していると、おのずと戦後生まれの日本人らしい日本人が出来上がるのである。自分の周りのことだけにびくびくしているので視野が狭い、つまり総じて近視眼的である。日本人には自分も含めて近視が多いが、これはある意味進化なのだろうか。台湾人の評論家、金美齢氏が、麻生首相の夜のバー通いについてマスコミが批判していることを受け、「半径100メートルの周囲にしか興味がない者にとって、一国のリーダーがどれだけの重荷を背負っているのか、想像する気もなければ、理解しようと試みたこともないだろう」と語っていたがまさにその通り。

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黒沢明監督の「わが青春に悔なし」では、国賊、スパイとして村人から迫害されながらも、最後は新しい時代のリーダーとして、その村人たちから尊敬されるに至る女性が描かれているが、集団からはみ出し、迫害されるタイプの人は、孤独に耐え自己を貫くという意味で、同時にリーダーとしての資質も持っていると思う。逆に、自己の保全を第一に考え、弱い者いじめを率先する(あるいはすぐに追従する)人もいる。そうした資質は幼少のころから身につけているようで、小学校くらいからいじめが深刻な問題となる。しかし、いじめっ子は出世しないという統計もあるらしい。これはグッドニュースである。

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私は小学1年の時に学校を転校した。転校先の学校の集会に母と一緒に参加したときのこと、自己紹介をとマイクを向けられた私は、一言もしゃべれずに泣き出してしまった。これは単に恥ずかしがり屋であるという単純なことではない。自分にスポットが当たることに慣れていないので戸惑い、周りが知らない人間ばかりなので恐怖を感じていた。そして、隣で母親が「一言だけでいいんだから何かしゃべりなさい」などと余計な事を周りに聞えよがしに云うので、その母親に対する怒りや、それを言われている自分を客観視してその情けなさにやりきれなくなる、などで思考停止してしまうのである。まずいことに、こうした体験がトラウマになり、以来私は人前で話すことに恐怖を感じるようになってしまった。小学校入学前までは、知らない大人にも平気で話しかけたし、人前で歌を歌うことも平気だったのにである。

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人前で話をするということに恐怖を感じる人は少なくないはずだ。そうした恐怖感を克服するには、自分をよく見せようとか何か立派な話をしなければならないとか、失敗したら笑われるなどという“とらわれ”から自分を解放することが重要である。そして何より大切なのは、「自分が話をするということは、自分の経験を分かち合う(シェアする)ことなのだ」というスタンスに立つことである。だれでも他人の経験には興味がある。そして、失敗体験でも成功体験でも無駄な体験などはない。

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大学院でインテルの西岡元社長に講義を受けた時、冒頭で「質問に馬鹿な質問なし」ということを伺った。どんな質問でも、一人の人がある質問をすることによりそれが他の人の別の疑問を励起したり共感あるいは反感を生んだりするので、大学の授業というものはこうした参加者による様々な意見の提供により活性化し、予測しないような展開を見せる。それが良いダイナミズムであるというのである。逆に何の質問もせずにただ黙って席に座っている学生は、授業に何の貢献もしていないということでアメリカの大学では非難されるらしい、これは欧米の会社でも同様だそうだ。

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私のように引っ込み思案な人間は突然能弁になるわけではない。それを改善、克服するには自分で自分を鍛えるしかない。例えば色々なセミナーに積極的に参加して最前列に座り必ず質問するとか、カラオケでは真っ先に歌うとか、英会話を習うとかである。私の場合はバンドでフロントマンを10年やったというのが大きく役立っていると思う。

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人に自分の言葉で何かを伝えるというスキルはとても大切である。「思い」さえあれば相手はいつか理解してくれるなどというのは引きこもりの妄想でしかない。数10年前から日本はかなり幼児化している。これはある種の漫画やアニメにみられる特徴に垣間見られる。それは、敵を倒すときに自分の編み出したパンチやキックなどにやたらかっこいい名前や字画の多い小難しい名称を付けて、それを叫びながらパンチを繰り出すと相手が簡単に吹っ飛ぶというものである。だから敵が「超なんとか」という技を編み出すと今度は対抗して「超々なんとか」、さらに相手は「スーパーウルトラなんたら」と叫ぶ、子どもの喧嘩である。

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自分が実際に見聞きしたわけではないが、欧米では学校の授業にディベートを取り入れているという話をよく聞く。これは自分の意見を堂々と述べるという意味で大いに役立つと思う。また、民族の特質というようなものもあると思う。中国や韓国の人たちもとても自己主張が強いという。日本人は自縄自縛の学校現場から生み出されているのでこうした主張の強い人種にはとても弱い。学校ではそうした自己主張の強い人(たとえば帰国子女など)は少数派なので排斥されてしまうが、国際社会に出ると逆に大人しく何も言わない人間は無視され軽く扱われ尊敬もされない。

日本の教育の現場でも、オフィシャルな場で自分の経験を恥ずかしがらずにシェアするという訓練を積ませることが急務であると思う。口だけ達者な小生意気なガキが増えるかもしれないが、何も語らず何を考えているのかわからない人(そして突然キレて刃物を振り回す)よりはましであろう。

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