比叡山での生活は東京で普通に育って中学を卒業した私の想像をはるかに超える厳しい世界だった。それは肉体的にも精神的にも両面について言えることであった。

山に入ったのが春休みの時期だったのでまだ学校は始っておらず、毎日毎日かまどや風呂で使う薪にするための木を運ばされた。自分たちが生活している寺から徒歩20分くらいのところに木を切り出している山の斜面があり、ここから太さも長さも4、50センチに切りそろえた丸太を担いで行くのだが、乾いていない生木はものすごく重かった。これを1日中日が暮れるまで繰り返す。例えばそれが10往復で終わるのであれば自分なりにあと何回というように言い聞かせながらできるのであろうが、これをいつ終わるともなく延々とやらされていくと、一種の絶望感にとらわれるようになる。それまで、小学生の間は体操の教室に通い、中学でも陸上部に属して、人一倍体を酷使することには慣れていたつもりの私でも、あまりの辛さに自然と涙があふれ、先輩たちが傍らで一服しろと声をかけてくれても、その情けない顔を見せたくないので聞こえないふりして通り過ぎたりしたものである。

そもそも私は今でこそ180センチ近くの大柄な体格ではあるが、中学生までは前から2番目くらいの小さくて細っこい体をしていた。しかし寺の同輩、先輩たちはいずれもガタイが優れており、とても彼らの体力にはついていけなかった。

山での生活はとにかく重いものをよく持たされた。学校へはケーブルカーで通うのだが、そのケーブルカーの山頂の駅に着くと、たいがい寺で注文した野菜や米が置かれていた。店のほうではケーブルカーの麓の駅までは運んでくれるが、それを山頂の駅から寺まで運ぶのは我々の役目である。木でできた背負子が駅に置いてあるのでそれに米や野菜をくくりつけて背負って山道を歩く。普通に歩くと15分ほどの距離ではあるが、重い荷物を担いで行くと一歩一歩進むごとに重さがずんずんと増してくる。一度背負子を背負うと寺に着くまで下ろすことができない。なぜなら、いったん下ろすと重くて二度と立ち上がれなくなるからだ。途中に大きな石灯篭があって、そこでは立ったまま背負子を灯篭の段になったところにひっかけることができたのでそこが唯一の休憩地点であった。こんな調子であったから、荷物が重くて「もう死ぬ」と思うことが1日に1回はあった。

石原都知事が、子ども時代には苦しいことに耐えるという経験をさせないと、我慢ができないすぐにキレる人間になるというようなことを発言されていたが、それはその通りだと思う。しかしそれはなかなか進んでできることではない。

寺の食事は、肉魚は一切だめだし、牛乳や卵も我々は口にできなかった。毎日重いものをもった挙句にこのような食事だったので、普通に高校生活を送って高タンパク食品を摂っていればもう少し背が高くなったに違いないと思う。また、年を取ってから腰痛に苦しむ可能性も高いことであろう。

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