夏になるとテレビでは怪談話が盛んに放送されますね。お笑い芸人や元アイドルのような芸能人が、この時とばかりに過去の不思議な体験や怖い話をして盛り上げますが、それをみて怖がる人も結構いるようです。こういう目に見えない恐怖感というのは人から人に伝染しますね。さみしい夜道を二人で歩いているとき、1人が何か変なものが見えたとか言って怖がりだすと、もう一人の方も何もなければなんともないのに、急に恐ろしい気持ちになる。
これは幽霊や物の怪が実際にいるわけではなく、暗示というものが人から人に伝わるということでしょう。言葉は「言霊」というように人の心に働きかける力があります。言霊という言葉に霊という文字があるので、なんだか言葉に不思議な霊力があると勘違いする人もいるでしょうが、これは同じ言語を話す人間同士にしか通じません。だから稲川淳二の恐ろしい話を日本語のわからない外国人に聞かせたって怖がりはしません。
私が小学生のころ、「こっくりさん」というのが流行りました。オカルト現象を手軽に体験できるということで怖いもの見たさでやったものです。10円玉の上に二、三人が人差し指を置いて、こっくりさんに質問をするとその10円玉が勝手に動くというやつです。人間の指は自分で見てもわかるでしょうが、止めているつもりでも微妙に震えていたり、指を動かさないように気を付けても勝手に筋肉がピクピク伸縮したりするものです。昨夜の飲み会でも、私のグラスにビールを注いでくれた向かい側の人の手が微妙に震えていました。だから自分が意識して動かしているわけでもないのに勝手に10円玉が動いたりするので、そこに何か動物の霊が乗り移っているような感じがするので「こっくりさん」つまり狐さんという名前が付いているわけです。
しかし、そのお遊びを非常に不思議な現象が起きたと思い込んで精神的におかしくなって過呼吸になったり泣き出したりする人が出てきます。すると面白いことにその状況が回りの生徒につぎつぎと伝染するわけで集団ヒステリーのようになるのです。こうした事態を受けてうちの学校ではこっくりさん禁止されましたが、当時は禁止するということは本当にこっくりさんがいる証拠だなどと解釈して、よりこの遊びがミステリアスなものになっていったわけです。
夏の怪談話などはまあ娯楽として楽しむ分にはいいのですが、やれ守護霊がついているのが見えるだの、地縛霊100個がとりついているだの、いい加減なことを言って除霊と称して金をとるようになるとこれは詐欺行為です。言葉というのは同じ言語を話す人間にとっては感情を刺激する力があります。「守護霊」と言っただけでなんだか有難いお守りのように感じたり、「前世の祟り」と言われたら何だか恐ろしいことが起きるような気がしてみたりする。これは日本語を解釈するように脳ができている日本人であれば、その言葉に対して脳が、すなわち心が反応してしまうからであり、これが言霊つまり暗示です。
世の中にはいい加減なことを言って生活の足しにしている人がたくさんいます。名前の字画がどうだとか方角がどうだとか、それをアミューズメントとして楽しむ限りであればいいのですが、自分の人生の判断をそのようなものに委ねてはいけません。
テレビでは、「この交差点で事故死した人の霊が悪さをする」とか、「この病院で亡くなった人の無念の思いが心霊現象として現れた」とか、さかんにやっています。しかし考えてみてください。1945年の東京大空襲では10万人の人がなくなっています。それも、自然死ではなく何の罪もないのに焼け死んだり逃れる途中で溺れ死んだりしたのですから、その無念の思いというのは計り知れません。関東大震災、阪神・淡路大震災、東日本大震災、毎年来る台風による災害でも多くの人がなくなっています。なのに、我々は平気でそうした犠牲者の上に築かれた街を闊歩して、グルメだのファッションだのと平和を満喫しているのです。どこかの病院で病死した人の霊が何か悪さをするのが本当なら、石器時代からの霊が押しくらまんじゅうのように皆さんの周りに満ち満ちていて、この地で生活などまともにできないはずです。
私は霊山とも呼ばれる比叡山延暦寺で3年過ごし、千日回峰行という行を行っている師匠に付き従って夜中に山道を何度も歩きましたが、一度も怪異を見たことがありません。何かにおびえる心が変なものが見えたような気を起こすだけだと思っています。
霊よりも恐ろしいのは己自身の怖じる心(恐怖心)だということです。マスコミや知人の言う妄言に耳を貸してはいけません。それを聞いても、心の中に暗示として残さないように聞き流すようにして欲しいものです。
沢庵禅師の言葉です。「心こそ 心迷わす心なれ 心に心 心許すな」。