今日は「気働き」ということについて話します。(内容は10年くらい前にブログに書いたものです)

気働きとは、簡単に言うと気が利くという意味だが、働くという漢字が付いている通り相手や周りの状況を察して行動を起こすことをいう。

  • 飲み会で目上の人のグラスが空いていたら酒を注ぐ、あるいは次に何を飲むか聞いて注文する。(特に、その人にごちそうになっている場合はなおさら)
  • エレベータに乗るとき、目上の人を操作盤の前に立たせないで自分が操作する
  • タクシーの乗る順番、宴席や会議室での座る位置(目上の人より先に奥の席に座らないこと)
  • 食事のときに目上の人より先に箸に手をつけない

なんかこのように書くと儒教的で堅苦しく感じるかもしれない。しかし、こういった気配りができないよりはできたほうがよい。社会は人間関係で成り立っている。人には気に入られないより気に入られるほうが断然よいのである。自分のポリシーとして人に媚びることは嫌だという人は好きにすればいいが、相手を気遣うということと媚びるということは全く違う。

落語家の立川談志があるとき、新米の弟子たちがあまりに気の利かないことでうんざりして、彼らにこう言ったそうだ。「お前達、礼儀作法から気働きを含め、何から何までダメだ。とても俺は面倒みきれん。お前たちの存在がおれにとってマイナスだ。文字助(古株の弟子)が一から仕込むと云っているから魚河岸へ行け。」(赤めだか/立川談春)といって、築地の魚河岸に1年にわたって下働きの修行に出した。礼儀作法や気働きというのはなかなか言葉では伝えにくい。昔は丁稚奉公で徹底的に仕込まれたのだろうが、現代では体育会系の人がそれに近い経験をしているかもしれない。

かくいう私も気の利かないほうで、子供のころから母親に「お前は融通が利かない」と事あるごとに言われていた。だからあまり人と関わることは好きではなく、技術系の仕事を選んだのもそういったことが理由の一つかもしれない。

それでも、高校時代に比叡山で3年に亘り小僧の修行をさせられたので幾分かはましになっているはずではある。その当時、まだ小僧になって最初の頃の話。里坊の律院で法要(分かりやすく法要と書いたが、寺では年間を通していろいろなお祭りがあり、その類のひとつ)があった。私は山上の玉照院という寺で生活していたが、関連の寺でイベントがあると手伝いに駆り出され、その日は先輩小僧と一緒に律院へ出張っていた。

その日は私たち一門外の年配の僧侶も来ていて、奥の居間でお勤めの時間まで待機していた。先輩がその僧侶にお茶を出すよう私に命じてこういった、「言われなくてもお茶を出せば、『おお気の利くぼん(小僧)や』と言うてくれはるで」と諭してくれた。私にとってはほとんど面識のない相手だったが、言われるとおりお茶を出した。相手は「ありがとう」ともいわず黙ってほぼ無視の状態だったが、この世界では当たり前のことである。あとで先輩が「どうや、ほめられたか?」と尋ねてきたが、「いえ、特に何も・・」と答えるしかなかった。

いずれにしろ、こうした機会を利用して先輩は何かと私に気働きを仕込もうとしてくれていたのである。それでも私はどうにも気が利かずによく叱られたものである。自分の性格上のこと以外に、ひどい近眼で少し離れると人の顔が判別できず、相手からは顔を合わせても挨拶もしない無愛想なガキだ、と思われていたり、私は関東弁なので関西圏の人たちからすると妙によそよそしく感じられるというハンディもあった。

当時、私のしたことが一門の中で妙に伝説になったことがある。私にはあまり記憶がないのだが、御前様(師匠の師匠)が少し遅く帰ってきて、食事はあるのかと聞かれ、それに対して「食べるんですか?」と聞いたということである。いくらなんでもそんな失礼な意味で言ったとは思えないが、私の舌足らずな口利きがそのように誤解を生んだようだ。ただ、そのあとのことはよく覚えている。御前様が近所の信者さんに電話をかけ、「ぼんが飯を食わしてくれへんのや、そっちで食わせてもらえへんやろか」と頼み込んでいたのである。普通、腹の立つことがあるとすぐに鉄拳が飛んでくるのだが、そのころすでに見切りをつけられていたのかもしれない。落語の世界で言うと、師匠をしくじったというやつである。

最近の若い人はこの気働きが欠如した人が多いと感じるが、それはその人に欠陥があるといことではなく、ただそういった訓練を受ける機会がなかったというだけのことである。昔は近所にガキ大将がいて年の違う子供同士でグループを作って遊んでいた。その中では序列が生じるので、自然とそうした感覚を学ぶ。また、私の世代以前は親が戦中派で軍隊での生活を経験していたりするので、しつけが厳しかった。それに対して最近は少子化で兄弟も少なく、近所の子供たち同士が外で遊ぶ機会も少なくなっているらしい。

親や先生とも友達のような付き合いだし、行儀が悪いと言ってぶん殴られることもないので、よくいえばのびのび育っているのである。能力はなにも劣っているわけではないのに、ただ、ちょっとした気働きができないという理由で、まだまだ多く残っている「最近の若い奴は」と感じているオジサンたちにこいつはダメだと思われるのは損である。おべっかや媚ではなく、こうされたら自分もうれしいと感じることをしてあげればよいのである。

我々の仕事に関して例を挙げると、仕様書を書く際にこれを読むユーザー様や同じ開発チームの同僚たちが理解できるだろうか、という目線で作成することが重要です。

IT業界の黎明期にMSXパソコンなどを企画したカリスマ的な技術者・経営者で西和彦氏がいます。この人は目上の人に好かれる才能があり、彼の事業に多額の出資をしてくれたパトロンにはCSK創業者の大川氏がいます。関係者から聞いた話ですが、西氏は会議の資料を大川氏の分だけは文字フォントを大きくして印刷して準備したそうです。こうしたちょっとした心配り(気働き)によって大川氏をいい意味で誑し込んだわけです。

まあ、自分の同僚や先輩、親や恋人・配偶者に応接する際にはこの話を思い出してみて、ちょっとずつで良いので実践してみて欲しいと思います。

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