イメージ画像

休み

翌日の入社式でスピーチするので、本日は休み。

タグ

他人(ひと)に伝えることの難しさ

□□□□
去る休日の昼、カミさんが出かけるということで私は子供と留守番することになりました。カミさんはカップにお湯を注ぐだけの麻婆春雨を置いておくので食べるようにと言い残して出かけました。

□□□■
さて、じゃあ早速それを食べてみようと思って台所のカウンターを見ると、銀色の小さな袋に入ったスープらしきものが置いてありました。印刷を見ると確かに坦々麺風の麻婆春雨と書いてあるので、これをマグカップに開けてお湯を注ぎました。辛そうな坦々麺のスープの香りが広がり、おいしそうではあるのですが肝心の春雨がそのなかにはありません。春雨は別売りかと思いました。

□□■□
最初はスープの袋に春雨が入っているのかと思いましたが、それらしきものは一切ありません。あきらめてスープとして飲もうかと思ったとき、もう一度台所のカウンターの上を見ると、ごちゃごちゃ取り散らかした小物に交じって透明の袋がありました。手に取るとまぎれもなく春雨でした。きっとカミさんが調理しやすいように袋から出しておいてくれたのでしょう。

□□■■
この商品を買ってきたカミさんは、それがどういう構成の商品かを知っています。つまり、春雨とスープの2つの袋で構成されているということを、です。だから、彼女はそれら2つの袋を取り出しておくことに何の問題も感じなかったでしょう。しかし、これを他者にそのまま引き継いでもなかなか理解はできません。他人はその商品を見たことがなく、元々どういうセットになっていたのか知らないのです。もしかすると辛味を倍増させるラー油の袋もあるかもしれませんが、私にはそういった情報がインプットされていません。

□■□□
こんなことを言うとカミさんから勝手なこと言わないでと怒られるかも知れませんが、このケースではその商品が入っていたパッケージをそのまま渡してくれた方が望ましいでしょう。そうすれば、何の小袋に何が入っており、どう調理するのかが私にもすぐにわかるはずです。

□■□■
私はよく得意先などから書類を受け取ります。その中には、経理に回すべき書類もあります。このようなとき、私は一度開けて取り出した内容物をまた封筒に戻して経理に回します。本当は中に入っている契約書の紙だけを回せばよいかもしれませんがあえて郵送されてきた状態のまま渡すようにしています。これは、付随する情報をなるべくスポイルせずに伝えるためです。

□■■□
こうすることによって、その書類がどのような意図をもって送られてきたのか、重要度はどの程度かを理解する助けになります。送り主が丁寧にそれを送ってくれたのか、横柄に送りつけてきたのか、何か気分を害しているのかというニュアンスまでも汲み取ることができるかもしれません。このような情報は口頭ではなかなか伝えにくいものです。

□■■■
たかがインスタント食品の話ではありますが、ものごとを他人に正しく伝えるのには、多少の配慮というものが必要です。自分が知っていることは他人も知っていると思いがちなのが人間ですが、大切なのは相手の立場になって考えるということです。また、言葉で伝えることには限界があります。いくら詳細に説明しても100%伝えることは不可能です。しかし、体験は言葉のそれを上回ります。

■□□□
かつてWindowsNTの開発リーダーだったデビッド カトラーは、「自分で作ったドッグフードを食え」という名セリフを残しています。これは、自分たちが開発中のOS(Windows NT)を使って、そのOSのビルドを行うということです。こうすれば、バグの報告レポートを詳細に書いて開発者に読ませるよりも、開発者本人がそのバグに苦しむことの方が格段に効果的だということです。

■□□■
後輩への教育の手段でも、あまり先輩があれこれ手をかけるよりも、あえて失敗させることが大きな学びのチャンスとなります。私が小学生のころ、図工の青木先生というひとがいました。ある日の木工の授業では、木の板から望みの形を切りだすために「糸のこミシン」という機械を使いました。ところが「糸のこ」の刃は非常に細いので気をつけないとすぐに折れてしまいます。刃を折らないための注意は事前に受けているのですが、それでも級友たちの中には刃を折ってしまうものがいます。そのとき、青木先生は「あれだけ注意したのに何故折るのだ」などと叱ることはしませんでした。それどころか、「刃を折ることも勉強だからいいんだよ」と言ってくださいました。

■□■□
それを聞いた私は「ああ、それなら刃を折った方が得だったな」と思う反面、少数の生徒しか刃を折るという経験をできないのであるから、クラスの残りの大多数の生徒から見たら不公平じゃないかと正直思っていました。しかし、未だにこのときの教えが私の心に残っているということは、刃を折ることのできなかった私にも、先生は素晴らしいお土産を残してくれたのだと今思い返して再認識しました。

■□■■
青木先生は外見がとてもいかつい感じで、当時人気のプロレスラーに似ていたことから「サンダー杉山」と呼ばれていました。悪いことをすると厳しく叱る先生でしたが、先の話のように優しい面もあり私も大好きな先生でした。

■■□□
では、経験できればそれですべて伝えられるかというと、これがまたそうはいきません。「群盲象をなでる」という故事があります。大昔、ある国の王様が盲人たちに象がどのようなものか教えてあげようとして、彼らにじかに象に触れさせました。初めて像を触った盲人たちは驚くとともに、一人は「まるで大木のようだった」といい、また別のものは「いやいや、壁のようだった」とか「そうじゃない、太い蛇のようだった」とそれぞれが全く違うイメージを述べたという話です。他人(ひと)にものを伝えることの難しさを物語る話です。

タグ

日本の習慣

□□□□
先日、新聞の記事で外国人記者の次のような意見を目にしました。

□□□■
その記者が、著名な財界人とのインタビューをある店でやることになったそうですが、その記者が自分より目上の財界人や仲介してくれた人たちよりも先に一番奥の席に座ったところ、皆から唖然とした表情であきれられたということです。この記者が言うには、「自分はただその席に座りたいから座っただけなのに非難されてしまった。日本にはこのような分かりにくい暗黙のルールが多すぎる、だから外国の企業が日本に参入しづらいのだ。」

□□■□
つまりこの記者は、日本には、外国人である自分にわからない決まりが多すぎてやりにくいということを訴えていたわけです。悪気がないのに非難されるという経験は辛いものでしょうし、それなら言ってくれればいいのにという気持ちもわかります。このような礼儀作法のようなものは、外国人が目にするビジネスのガイドブックにはあまり登場しないのかもしれません。この記事を見て私も少々この外国人記者に同情しました。

□□■■
さてその数日後、テレビで芸能人が様々な国の家庭にホームステイするという人気番組を見ていて感心したことがありました。若い男性芸能人がマサイ族の村にホームステイしての食事のシーン。一家の母親らしき女性が椀に食事を盛り付けて、一人ずつにどうぞと言って手渡していきます。その芸能人が言われるままに渡された食事に手をつけた直後、隣に座っていたマサイの若者からこう言われました。「お前の国では年長の者より先に食事に手をつけるのか?」 私も子供のころから親に、目上の人より先に箸をつけてはいけないとしつけられました。このシーンを見てとても懐かしい気持ちになりました。

□■□□
日本には昔から年長者を敬うという習慣があります。これは美しい習慣であり、マサイ族でもお隣の韓国でもそのようにしていることから、決して日本が特別な価値観を有しているわけではありません。マサイは狩猟・牧畜民族、日本は農耕民族ですが同様の価値観を持っているのです。ただその運用方法としての習慣が国それぞれで違うのでしょうが、それは文化であり外国の人間がとやかく言うことではないでしょう。

□■□■
企業経営に関して日本独自の商習慣を改めて透明性を高めろとか、グローバライゼーションの流れに合わせろだとか言っている欧米の人たちの多くは、企業買収やM&Aにより利益を得たいと思っている連中だったりします。ゲームのルールを明確にして、自分たちがそのゲームに勝ちたいというのが本音です。

□■■□
世界中には色々な人間がいてそれぞれの思惑で動いているのです。そんな人々が自分に都合の良いようにもっともらしいことを言います。それらに対して一々右顧左眄することはありません。日本では靴を脱いで生活し、箸で食事をする。それが世界中でもクールとみなされ、欧米の富裕層の中には畳を敷いた和風の部屋を愛し、日本風に湯船につかることが贅沢だと感じている人たちもいます。

□■■■
かつては生魚を食うのは野蛮人だと言われていたのに、今では世界中で寿司や刺身がもてはやされます。昔は命がけで鯨を捕り、その骨や髭まで大切に利用してきた我々に対して、おかしな理屈で文句をつけてくる組織や国があります。かつては大捕鯨国で、それもただ油をとるためだけに多くの鯨を殺してきた人々に、いまさら「可哀想だから取るな」などと言われるのは片腹痛いというものです。

■□□□
最近よく企業価値という言葉が使われますが、その多くは株式の時価総額のことを指しています。このような時流に乗って、皆が時価総額の高い企業が良い企業で、そうでない会社は存在する意味がないなどと考えたらどうなることでしょうか。会社は人と同じように色々です。大きいものもいれば小さいものもいる。有名なものもありますが、大半は誰も知らないようなちっぽけな会社です。しかし、そのような会社が社会の底辺を支えているのです。人間社会と同じではありませんか。人だって皆が皆、お金が第一だと思って暮らしているわけではありません。人生の意味を模索しながら懸命に生きている人たちもたくさんいるのです。

■□□■
お年寄りを大切にするという習慣の意味するところは、単に弱者だから保護してあげようということではなく、先祖を敬うのと同様、これまで色々尽くしてくれた人々に対する感謝の気持ちがあることは言うまでもありません。しかし、ここに時価総額がすべてというような考えが導入されたらどうなるでしょうか。かつてどのような活躍をした人であろうと、年をとって働けなくなったら人間としての時価総額が下がったとみなして、ないがしろにしても構わないという風潮になるでしょう。「会社と人間は違うんだから、こんな意見は飛躍し過ぎている」といわれるかもしれませんね。

■□■□
しかし、この20年くらいの間に確実におかしくなってきています。自分の祖父や祖母のことを平気でジジイ、ババアと呼ぶ若者が男女を問わず増えてきています。目の前にお年寄りが立っていても平気でシルバーシートに座っている若者もよく見かけます。どうしてそうなったかを考えると、共通点が見えてくる気がします。それは、「見えないものに対する畏敬の念」が失せてきている(感性が欠如している)からではないでしょうか。

■□■■
日本人は、他国の意見を尊重するあまり、自国の歴史や文化、習慣をやすやすと手放すべきではないと思います。どうも日本人にはその特徴として、他者の意見をことさら必要以上に慮ってしまう性質があるようです。もしかすると江戸時代の鎖国はそうした日本人が他国を気にすることなく思う存分に自分たちの文化を花開かせることができた大きな要因だったのかもしれません。

■■□□
いまさら鎖国などはできようはずもありませんが、誤解を恐れずに言うなら、教育などにより、もっと石頭で頑固な人間を育てるべきかもしれません。もう少し穏やかに言うならば、「自分の内なる声に忠実な人間」といってもいいかもしれません。そのためにはまずは日本が誇りを持てる国となることが必要条件となりますが、残念ながらその道のりははるか遠いように感じられます。

タグ

マニュアル

□□□□
先日、快晴にもかかわらず真冬の冷たくて強烈な風が吹き抜ける中、池袋の知り合いの会社へ行こうと通りを歩いていました。

□□□■
すると目の前の交差点で年配の女性が、通りかかったタクシーに手を挙げているのが見えました。私は赤信号だったのでこの様子をしばらく見ていました。タクシーは交差点の中ですぐに止まりましたが、ハザードランプをつけたままでドアが開く様子もありません。おりしも寒風吹きすさぶ中、老婦人はドアの開かないタクシーの横にただ待ちあぐねておりました。何か故障でもしたのか、それとも乗車拒否するのかなと思って見ていると、運転手が助手席側のドアからもぞもぞと這い出してきたかと思うと、乗客のためにホテルマンのような仕草で後部のドアを開けました。なるほど、サービスの良さで知られる京都のMKタクシーは、必ず白手袋をした運転手が降りてきて乗客のためにドアを開けることで有名となりました。そのまねをこのタクシーはしているのだなと理解できました。たまたま止まった場所が交差点だったので助手席側から降りようとして少し時間がかかったようでした。そんな型どおりのサービスはいいから、さっさと自動ドアを開けてやればいいのに、客の老婦人は極寒の中でしばらく待たされていたのです。

□□■□
サービスというものは客のためにするものであり、提供側の自己満足でするものではありません。件の運転手もきっと社内で研修を受けてお客様のためにというつもりでこの作法を身につけたのでしょうが、客の立場になってみれば、状況を見て臨機応変に対応してもらいたいと思うでしょう。

□□■■
いまはファストフードから高級ホテルまで接客に対してすべての作法がマニュアル化されています。何も知らない新人を教育するために企業は多大な努力を払いますが、それを効率よく実施するために業務の様々な手順をマニュアル化することは決して間違いではありません。マニュアルの中には多くの経験と知識が凝縮されており、場当たり的な教育よりもよっぽど普遍的で役立つ内容となっているはずです。

□■□□
しかし、マニュアルはあくまで手順書であり、戦場におけるあなたの上官でもなければ神の教えでもないのです。会社は時々その教えどおりに事がなされているかを確認するために監査を入れることもあるでしょう。それにより指導されたとおりの手順が実行されていない時には厳しい指導がなされるかもしれません。しかし、マニュアルは万能ではありません。日常起こりうるすべてのことを網羅することは不可能ですし、仮にそれだけの内容を盛り込んでいたとしても、幾百万通りの対応方法を記憶することは人間にはできません。

□■□■
マニュアルは一般的なケースについて対応方法を記述したものであり、想定外の局面においては、結局その場の人間の対応にゆだねられることになります。その時に、マニュアルには書かれていなくても、そのマニュアルを作成した人であればどのようにふるまうであろうかということを勘案して行動することが肝要となります。

□■■□
サービスとはどういうものかを表すための伝説的な逸話として、ある老舗旅館の話を聞いたことがあります。宿泊客が大切な指輪を洗面台に流してしまったという訴えを聞いた客室担当者は、誰に相談することもなく独断でその洗面台を破壊し始めました。そしてパイプの中に詰まっていた指輪を見つけ出して、客に返却したということです。また、最近テレビで見た話ですが、1977年ニューヨーク大停電のあった時に、停電によって発生した暴動から避難してきたホームレスの集団が、近くのウォルドルフ・アストリアホテルのロビーに入り込んできたそうです。この事態に総支配人は、彼らを追い出すことなどはせず逆にホテル中のローソクと食料をロビーに持ってこさせて彼らを安心させたということです。ロビーに敷かれていた年代物の高級絨毯もローソクがたれて汚損したようですが、そんなことには頓着しなかったそうです。のちに総支配人が語ったところでは、自分たちのホテルはただの営利目的の宿泊施設ではない。有事の際には公共のために尽くすという義務を負っている施設なのだという自負があったそうです。

□■■■
本日はISMS(ISO27001)の1次審査が行われる日です。我々が何故ISOを取得するかというと、それはユーザへのサービスのためです。ISOは手順書、つまりマニュアルの塊ですが、決して盲目的にそれを運用すればよいというわけではありません。ISOは品質ISO(QMS)であれ環境ISO(EMS)であれ、PDCAサイクルというものを重視します。計画(PLAN)をたて、実行(Do)し、それを振り返り(Check)、つぎの行動(Action)へつなげていくという思想で、別にISOなどというバタ臭い言い方をせずとも、日本の製造業の現場では昔からTQCなどを通じて実践されていたことです。だから、単にスタイルを真似するのではなくPDCAサイクルの心をつかんでほしいと思います。

■□□□
ISOの目的は、以前にお話ししたヒヤリハットや、情報の共有により担当者が変わろうとも一貫したポリシーを実務に反映することなどを目的としたもので、しごく合理的なものです。蛇足ですが、私が手順書作成好きなことは皆さん承知のことと思います。私にとって手順書は第一に自分のために作成します。自分自身が膨大な仕事量の中で業務を定型化し無駄な作業をなくして時間を節約するのが最重要目的です。(本当は生来の忘れっぽい性格により、3日前に自分が何をしたかを覚えていられないので備忘録として作成するのですが、その存在自体を間々忘れることがあります)また、それらをドキュメント化することにより他人にも技能を継承することが第2番目の目的となります。

■□□■
しかし、マニュアルはあくまでマニュアルです。マニュアルが間違っている可能性もありますし、その時の状況にそぐわない記述となっている可能性もあります。先の例のように、客が洗面台に指輪を流した時や、停電でホームレスの人々がホテルに入り込んできた時の対応方法などはマニュアルには記載されていません。そのような事態に対応するのは人間の感性の問題となります。そこで一番重要なのは「理念」ということになります。今一度会社の理念を再確認し、それを方位磁石として大まかな方向付けとすることが大切です。細かい手順書はそれを補足するものにすぎません。

■□■□
「理念」というと漠然としたものと感じる人もいるかもしれませんので、もう少し簡単かつ具体的に説明します。ある事態が発生したときに、こんなとき社長ならどう対応するだろうか、あの先輩ならどう考えてどう行動するだろうかと、客観的に社長や先輩の立場で考えてみることです。都合の悪いことは無かったことにしてしまえとか、誰かのせいにしてしまえといった考え方をする上司は、私の知る限りこの会社にはいないはずですから。

タグ

Be a Gentleman

□□□□
最初に入ったK社の社長が社内ミーティングか何かの席でちょっとした話をした。社長というものは折にふれ、仕事とは直接関係ないけれども教訓めかした話をするものである。私などはその最たるものですが。

□□□■
その時のテーマは「Be a Gentleman」(紳士たれ)というよく使われるものでした。話の内容はよく覚えていませんが、社会人たるものは紳士としての振る舞いをしなければならないというようなことだったと思います。

□□■□
しかし、当時20代そこそこの自分からしてみると、まだまだやりたいことがいっぱいあるどころか、何をしたいかすらよく分からないのに、いきなり「紳士たれ」と言われても全くピンときませんでした。私は「紳士」と言われても発想が貧困なので、きちんとしたテーブルマナー、レディファースト、シルクハットが似合うような、いわば執事カフェで働いているような男しかイメージできませんでした。いずれにしろ「紳士」というと何か人間的に丸くなったおとなしい男、いわば牙を抜かれたライオンのようなネガティブイメージが浮かんできたのです。

□□■■
若いうち、特に男性は、カッコいい男というと、どうしても見た目がカッコいいとかスポーツが得意とかいうような外見的なものを考えてしまいがちです。学校では、勉強ができるということよりもスケートボードがうまかったりファッションセンスが良かったり、ツッぱって先生に反抗したりする人の方が同級生からはかっこいいと思われるものです。

□■□□
私が子供のころ、「空手バカ一代」という漫画がはやり、「強い」ということがものすごくカッコいいと思ったものです。一見普通に見える人が簡単にやくざをやっつけたり、牛やクマと戦ってこれを倒したりするシーンを見て、純粋に自分もああなりたいと思ったものです。

□■□■
しかし、社会に出てみると、思い込みや腕力だけでは何もできないということを思い知らされます。目の前の些細なことすら自分の思いどおりにはならないことに、自分に対してイライラします。

□■■□
そういう中で、本当の格好よさとはそれまで自分が思い描いていたものではなかったことに気付いてきます。難しいと思われる仕事をこともなげにこなしてしまう先輩を見てかっこいい、クールだと思うことでしょう。さりげなく部下を思いやる上司を見て、自分もそうなりたいと考えることもあるでしょう。やはり人生の手本は身近な人にあり、その人の所作を見てそれをまねることにより少しずつ成長していくのです。

□■■■
Gentlemanというのは生まれながらにしてなるものでもないし、ある日突然そうなるものでもないでしょう。人生というコースを外れることなくあたらず障らず無難に過ごしてきた人がGentlemanではないのです。若い時には人間としての枠を思い切り使う、それがエンジンだとすると最大限まで回転数を上げ、時にはレッドゾーンを振り切るような体験をして初めて自分の能力やニュートラルの位置などが分かるようになるのです。

■□□□
自分が正しいという思い込みが、周りにとってただ迷惑なだけだったり、良かれと思ってしたことが人を傷つけたり、そういう体験をたくさん積み重ねて初めて人を思いやることのできる「紳士」になっていくのだと思います。

■□□■
だから、若い社員やこれから入社してくる学生さんに対して頭ごなしに「紳士たれ」などと言っても何の効果もありません。まさに蛙の面にしょんべん、馬の耳に念仏です。私は会社ではこういいます。「まずは好きなようにやりなさい、尻拭いは俺がするから。だけど、30くらいまでには大人になってくれよ」と。「紳士」がどうとかいうのはそれからだと思っています。

蛇足:
「尻拭いは俺がする」などとはいっても実際そう簡単なことではなく、自分も満身創痍になったりするので、決して言うほどカッコいいことではありません。

タグ

このページの先頭へ