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先日、新聞の記事で外国人記者の次のような意見を目にしました。

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その記者が、著名な財界人とのインタビューをある店でやることになったそうですが、その記者が自分より目上の財界人や仲介してくれた人たちよりも先に一番奥の席に座ったところ、皆から唖然とした表情であきれられたということです。この記者が言うには、「自分はただその席に座りたいから座っただけなのに非難されてしまった。日本にはこのような分かりにくい暗黙のルールが多すぎる、だから外国の企業が日本に参入しづらいのだ。」

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つまりこの記者は、日本には、外国人である自分にわからない決まりが多すぎてやりにくいということを訴えていたわけです。悪気がないのに非難されるという経験は辛いものでしょうし、それなら言ってくれればいいのにという気持ちもわかります。このような礼儀作法のようなものは、外国人が目にするビジネスのガイドブックにはあまり登場しないのかもしれません。この記事を見て私も少々この外国人記者に同情しました。

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さてその数日後、テレビで芸能人が様々な国の家庭にホームステイするという人気番組を見ていて感心したことがありました。若い男性芸能人がマサイ族の村にホームステイしての食事のシーン。一家の母親らしき女性が椀に食事を盛り付けて、一人ずつにどうぞと言って手渡していきます。その芸能人が言われるままに渡された食事に手をつけた直後、隣に座っていたマサイの若者からこう言われました。「お前の国では年長の者より先に食事に手をつけるのか?」 私も子供のころから親に、目上の人より先に箸をつけてはいけないとしつけられました。このシーンを見てとても懐かしい気持ちになりました。

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日本には昔から年長者を敬うという習慣があります。これは美しい習慣であり、マサイ族でもお隣の韓国でもそのようにしていることから、決して日本が特別な価値観を有しているわけではありません。マサイは狩猟・牧畜民族、日本は農耕民族ですが同様の価値観を持っているのです。ただその運用方法としての習慣が国それぞれで違うのでしょうが、それは文化であり外国の人間がとやかく言うことではないでしょう。

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企業経営に関して日本独自の商習慣を改めて透明性を高めろとか、グローバライゼーションの流れに合わせろだとか言っている欧米の人たちの多くは、企業買収やM&Aにより利益を得たいと思っている連中だったりします。ゲームのルールを明確にして、自分たちがそのゲームに勝ちたいというのが本音です。

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世界中には色々な人間がいてそれぞれの思惑で動いているのです。そんな人々が自分に都合の良いようにもっともらしいことを言います。それらに対して一々右顧左眄することはありません。日本では靴を脱いで生活し、箸で食事をする。それが世界中でもクールとみなされ、欧米の富裕層の中には畳を敷いた和風の部屋を愛し、日本風に湯船につかることが贅沢だと感じている人たちもいます。

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かつては生魚を食うのは野蛮人だと言われていたのに、今では世界中で寿司や刺身がもてはやされます。昔は命がけで鯨を捕り、その骨や髭まで大切に利用してきた我々に対して、おかしな理屈で文句をつけてくる組織や国があります。かつては大捕鯨国で、それもただ油をとるためだけに多くの鯨を殺してきた人々に、いまさら「可哀想だから取るな」などと言われるのは片腹痛いというものです。

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最近よく企業価値という言葉が使われますが、その多くは株式の時価総額のことを指しています。このような時流に乗って、皆が時価総額の高い企業が良い企業で、そうでない会社は存在する意味がないなどと考えたらどうなることでしょうか。会社は人と同じように色々です。大きいものもいれば小さいものもいる。有名なものもありますが、大半は誰も知らないようなちっぽけな会社です。しかし、そのような会社が社会の底辺を支えているのです。人間社会と同じではありませんか。人だって皆が皆、お金が第一だと思って暮らしているわけではありません。人生の意味を模索しながら懸命に生きている人たちもたくさんいるのです。

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お年寄りを大切にするという習慣の意味するところは、単に弱者だから保護してあげようということではなく、先祖を敬うのと同様、これまで色々尽くしてくれた人々に対する感謝の気持ちがあることは言うまでもありません。しかし、ここに時価総額がすべてというような考えが導入されたらどうなるでしょうか。かつてどのような活躍をした人であろうと、年をとって働けなくなったら人間としての時価総額が下がったとみなして、ないがしろにしても構わないという風潮になるでしょう。「会社と人間は違うんだから、こんな意見は飛躍し過ぎている」といわれるかもしれませんね。

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しかし、この20年くらいの間に確実におかしくなってきています。自分の祖父や祖母のことを平気でジジイ、ババアと呼ぶ若者が男女を問わず増えてきています。目の前にお年寄りが立っていても平気でシルバーシートに座っている若者もよく見かけます。どうしてそうなったかを考えると、共通点が見えてくる気がします。それは、「見えないものに対する畏敬の念」が失せてきている(感性が欠如している)からではないでしょうか。

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日本人は、他国の意見を尊重するあまり、自国の歴史や文化、習慣をやすやすと手放すべきではないと思います。どうも日本人にはその特徴として、他者の意見をことさら必要以上に慮ってしまう性質があるようです。もしかすると江戸時代の鎖国はそうした日本人が他国を気にすることなく思う存分に自分たちの文化を花開かせることができた大きな要因だったのかもしれません。

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いまさら鎖国などはできようはずもありませんが、誤解を恐れずに言うなら、教育などにより、もっと石頭で頑固な人間を育てるべきかもしれません。もう少し穏やかに言うならば、「自分の内なる声に忠実な人間」といってもいいかもしれません。そのためにはまずは日本が誇りを持てる国となることが必要条件となりますが、残念ながらその道のりははるか遠いように感じられます。

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