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少し面白い出来事があったのでその話。

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昨夜、家族で食事に出かける際に隣の駅までバスで行った。下の娘は母親と座りたがるので、妻と二女、長女と私でそれぞれ二人掛けのいすに座った。食事も終わり、そろそろ帰ろうかという時間になり、バスがまだあるか時刻表を携帯で調べた。JRで帰っても1駅であり、時間も大して変わらない。すると、ちょうど5分後に最終バスが出るということがわかり、急いで会計をしてバス停へ向かった。

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下の娘は食事中に寝てしまったので私が抱っこして帰らなければならないので、家の前まで行ってくれるバスに間に合ったのは幸いだった。バス停に着いて間もなく、ほとんど乗客を乗せていないバスがやってきた。

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今度は妻と長女が二人掛けの席に座り、その後ろの座席に二女を抱っこした私が座ろうとしたところ、座席の上に何やら小さな黒い革の小物が置かれているのが目に入った。瞬間、「これは誰かの忘れものだな、運転手に渡してやろう」と思いつつそれをよく見ると、なんと、私が長年使い慣れたキーケースだった。今日も確かにポケットに入れて持ち歩いていたはずだった。「え、何で?」と不思議に思ったが、よく考えてみるとその席は出かけてくるときに座った席と同じ位置だった。

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つまり、来る時に私がポケットから落としたキーケースが、そのまま座席の上に置かれた状態で誰にも拾われずに2時間ほど巡回し、再び同じバスの同じ席に座った持ち主に拾われたということなのである。不思議な偶然と幸運な出来事に私も妻も驚いた。

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そこで昼間の出来事を思い出した。
土曜日で梅雨の晴れ間(といってもどんよりと曇っていたが)に恵まれたので、近くの公園へ二人の娘を連れて行った。すると、公園の入口で落し物を見つけた。ベビーカーに取り付けて使う、毛布などを挟むためのクリップで、ミッキーマウスか何かのキャラクターがついたものだった。これは2つ対で使うもので、うちも子供が小さかった時は同様の商品を使っていたし、落として買いなおしたこともあった。しかし、近くを見回してもベビーカーらしきものは見当たらないので、人や自転車に踏みつけられないように低い柵の上の乗せておいた。

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しばらく子供と遊んでいるうちに、奥の方でベビーカーを傍らに置いてブランコに乗っている母子を見つけた。父親らしき人もその横にいた。この公園は結構広くて、入口からはこの家族が見えなかったのである。落とし主かどうか確かめようとそのベビーカーの方へ娘と一緒に近づくと、その母親は私たちがブランコを使うために来たと思ったらしく、さっと気持ちよく譲ってくれた。そこで、「このクリップが入口の所に落ちていましたよ」と教えてあげると、すぐに気付いた様子で私に礼を言うと父親と一緒に急いでそれを取りに戻って行った。

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遠くてよく見えなかったが、無事に落し物を見つけたようだった。ベビーカーのクリップなどはちっぽけなものであるが、それでも無くすと痛いものである。特にキャラクターものの商品だとそれなりに値も張る。自分も失くした経験があるのでよくわかる。他人事ながら、「見つかって良かったね」という思いだった。

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そんなことがあった日の夜に、この不思議な偶然である。大袈裟かもしれないが、「善因善果」という言葉を思いだした。善い行いをすれば善い結果が返ってくるという仏教の教えで、反対の言葉に「悪因悪果」というのがある。もちろん、何か良いことをしたからといってすぐに結果が得られるわけではないし、そうした結果を期待するのも誤りであろう。しかし、昨日の出来事は、単に運がよかったということではなく、「善因善果」ということをぼんやりと認識していた私に、誰かが強く教えようとするメッセージだったように感じる。

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最近世を騒がせている食品偽装、あるいは人材派遣、英会話教室など色々な会社が社会から非難を受け、金太郎飴のように同じようなキャラクターの社長が出てきて、カメラに向かって謝罪をする姿がテレビに映し出される。社会を欺いて利益を上げ、社員を苦しめて業績を伸ばして短いわが世の春を謳歌しても、後に残るのは虚しさだけである。こうしたケースが「悪因悪果」である。私が籍を置いた比叡山の開祖伝教大師も「因無くして果を得る、是の処(ことわ)り有ること無し」とおっしゃっている。経営者であれば、世の中に害毒を流して自分一人の人生を物質的に豊かにしようとするよりも、自分が死した後に人材を残すというような考え方になってもらいたいものである。

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