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最近、若い人の敬語の使い方がおかしいとか、敬語が全く使えないといったことが話題になることが多くなりました。そうはいっても、実際は多くの大人たちも正しく敬語が使えているとはいえないでしょう。私自身も怪しいものです。

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若い人たちが敬語を使えなくなっているのは、親や学校の先生など、目上の人と敬語を使って話すという機会がどんどん失われているからだと思います。よく、「友達のような親子」という表現を目にしますが、確かに街で見かける多くの親子は、お互いに友達言葉で話をしています。本当に仲が良いのであればよいのですが、子供の言葉づかいを細かくいちいち指摘や矯正し、「うざい」親だと思われることを親自身が避けていることもあるような気がします。

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私自身の子供時代、それほど敬語で親と話をすることはなかったように思いますが、使ってはいけない言葉や言葉使いなどについては、うるさく教育されたように思います。親に対して命令するような口調や、上から下にものをいうような言い方をすると厳しく叱られましたし、親と話をするときは何かしらの緊張感がいつもあったように思います。

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中学校2、3年の頃、同級生の家に遊びに行った時に、そこの父親が息子と流行りのテレビドラマを話題にして普通に話をしているのを見てショックを受けたことがあります。私の家では、父親とテレビドラマや流行りの音楽について対等に話をするなどということは考えられなかったからです。私の家庭では、あくまで子どもは子ども、大人は大人という厳格な線をひかれていたので、他の家でも同様だろうと思っていたのです。

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そこへいくと、最近の子供たちは親とも仲良く普通に話ができてうらやましい限りですが、その感覚をそのまま学校の先生との関係へ持ち込むのは問題があると思います。今時の子どもたちは、学校の先生に対しても平気で友達に対するような話し方をします。親でさえ子供に遠慮して細かいことを言わなくなっているので、学校の先生は猶更でしょうか。どうも生徒に気を使って、わざと友達のような関係を作ろうとしているように思えてなりません。このことが、子供の言葉遣いや態度に上下関係というものがなくなってきている原因のような気がします。

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人間関係とは、立場や年齢、その世界でのキャリアの違いなどにより複雑に構成されるものだと思います。本来は自分と対等な関係の他に、上下関係というものがあってしかるべきところ、対等な関係という2次元的なものに簡略化されている気がします。昔は近所との付き合いも濃厚で、他人の子でも叱ってくれるカミナリ親父がいたり、兄弟親戚も多かったりで、様々な上下関係が存在したはずです。これが少子化、核家族化、近所の子供たちとの遊び場の減少(つまりご近所コミュニティの消滅)などにより、子供にとっては家庭における親子関係、学校における同級生と先生との関係くらいしかなくなってしまった上に、親や先生とも対等に話をするようになってしまい、子供はフラットな人間関係しか経験せずに大人になってしまうのではないでしょうか。

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私自身も比叡山へ小僧に行った時には随分と言葉遣いで叱られました。敬語ができる、できないといったことではなく、目上の相手に対する言動が失礼にあたる、というようなことで怒られることが多かったようです。また、先方は関西弁の文化圏なので、私の話し方でよく言われたことは、関東弁は「冷たい」とか「言葉にケンがある」といったものでしたが、東京で生まれ育った私には、これは言いがかりのように感じました。

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例えば、こちらが軽い気持ちで「バカだなー」というと、関西の人はめちゃくちゃに腹が立つそうです。「アホやなー」ならば軽く流せるようですが、「バカ」という言葉は関西の人にとってはニュアンスが違って取れられてしまいます。逆に、東京の人は「アホか」といわれると、「バカ」以上に何かムカッとくる人が多いのではないでしょうか。このように同じ日本人でも、地域による言葉の感受性も異なっているのです。

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その比叡山で、こんなことがありました。皆で餅つきをしているときに、叔父弟子にあたる栢木師がちょっとした料理を作ってくれました。ふつう、兄弟子や師匠に当たる人が、目下の小僧のために何かしてくれるなどということはあり得ないのですが、栢木師はサービス精神が旺盛で、たまに、我々下っ端の小僧のために自らコーヒーをいれてくれて、「お前の将来の夢は何や?」などと親身に話をしてくれたものでした。

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さて、皆が忙しく餅つきをしている中、栢木師がいいました「お前ら、わしが特製のきなこ餅をこさえたさかい、手えの空いたもんから食うたらええで」。そうは言われても、普段ガチガチの上下関係の世界に生きている小僧ですから、いきなり「いただきます」と手を出せる者などいませんでした。皆が遠慮していると、近くにいた先輩小僧のKさん(前に話題にした人です)に、「おう、お前も食わんかい、特製やぞ」と勧めました。

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Kさんは、ここは素直に頂いた方が良いだろうと思ったのでしょう、「はい、それでは折角ですから“試食”させていただきます」と答えました。すると、それを聞いた栢木師の顔色がとたんに変わりました。「お前、試食とはなんや試食とは、試食というのは上のもんが下の作ったものを試しに食べるという意味やぞ、言葉に気いつけんかいっ」と烈火のごとく怒りました。そして、「お前なんぞに試食して“いただかんでも”ええわっ、もうお前は食うなっ!」と怒鳴りつけたのでした。それを聞いて、私は、「ああ、自分でもうっかりして“試食”という言葉を使ったかもしれないな」と思い、ヒヤッとしたものでした。

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寺での上下関係は厳しく、ちょっとした言動もその中にゆるみが見えると即座に指摘を受けましたが、このように指摘してくれる人がいるというのは重要です。今はなかなかそこまで注意してくれる人はいないでしょう。

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敬語ができるかどうかというのは、単なるフォーマット(形式)なので気をつけて練習すればある程度使えるようにはなるでしょう。しかし、それよりも重要なのは、相手に失礼にあたるようなものの言い方をしないということです。これは目上の人だからということだけではなく、物の言い方で人は大きく「傷つく」からです。そして、相手が傷つくのではなかろうかと感じることが大切です。これは、先輩から後輩に対して話をする時でも同じで、敬語を使う必要はなくても、横柄なものの言い方や、馬鹿にした言い方をしたら決して相手はこちらの言うことの真意を汲んではくれないでしょう。

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