前々回に「大に分かてば多く和す」という言葉を紹介しました。これは私が住んでいた寺の床の間に飾られていた言葉ですが、同じくその寺の庭にも、なるほどと思う言葉を彫った石が置かれていました。
吾唯足るを知る (われただたるをしる)
あれが欲しいこれが欲しいとないものねだりをするのではなく、自分に与えられているものに感謝して、その与えられたものを十分に生かしきるということだと思います。
人には欲望というものがあります。欲望というと悪いことのように聞こえるかもしれませんが、これがなければ人類の発展も生活の向上もありえません。欲望にもベクトルがあると思います。欲望は正しい方向へ向けてやれば、人が人として生まれたその責を果たすという大切な行動に結びつきますが、ひとたび誤ると多くの人々を苦しめることにもなるのです。
欲望のベクトルとは、それが自分自身の私利私欲なのか、それとも他者に対する愛情なのかということではないかと思います。おいしいものが食べたい、旅行に行きたいというのは自分の欲求です。これらも適度に満たしていくことは豊かな人生を送るには重要なことでしょうが、もっと大局的に見て、家族を幸せにしたいとか世の中に貢献したいという目標を心の中に持つべきだと思います。
また、この言葉の意味は決して「現状に甘んじて妥協せよ」という意味ではないと思います。それどころか、自分の能力を最大限に発揮するために、あくなき努力を続けること、つまり自分の欲望(この場合よい意味での)を満たすために一所懸命に生きることを肯定していると思います。
自分に与えられているものとは何でしょうか。身体、頭脳、親や兄弟などの血縁関係、友人などでしょうか。自分にものを考える頭があるのならば、自由に動かせる身体があるのならば、それで十分だということです。いや十分どころか大変に恵まれていることだと思わなければならないでしょう。これらはいわば資産です。その与えられた資産を生かして、能力を身につけ、人間関係を築き、子供や後輩を育てていくという事業には終わりはありません。
この言葉が戒めているのは、もともと与えられている自分の能力に対して、これを磨く努力もせずに、「日本人に生まれて損をした」とか、「もっと容姿に恵まれていればよかった」とか、「親の遺産が少ない」とか「私は運が悪い」だの不平不満を言い、あれが欲しいこれが欲しいと他人の持っているものをやたらと欲しがることだと思います。
私が高校生のころ栢木師が言っていた言葉でよく覚えているのは、「会社に対する不平不満が多い者に限って仕事ができない」というものでした。当時私は高校生でしたから会社とはどういうものか知りませんでしたが、社会人になり、経営者となってみてそれがよく分かります。外に対して不平不満を言う人は、外に対してあれが欲しいこれが欲しいと際限のない欲望を満たそうとします。「満たそうとする」というと、何か積極的な行動を起こすように聞こえるかもしれませんが、「だれか何かくれないかなー」程度の他力本願な勝手なお願いといったほうがよいかもしれません。せいぜいパチンコ屋にいって大当たりを期待するくらいのものでしょう。これは欲望のベクトルが間違っています。
これに対して、問題を問題として感じ、それを改善するために行動するというのは、誰でもその能力を持っているはずですが、実行する人は限られてきます。会社に対して不満を感じる、ここまでは同じでも、その後、それは何が問題なのかをよく考えて、改善するために行動を起こすことができる人は、正しい欲望のベクトルを持った人だといえます。
私の解釈する「吾唯足るを知る」は、あれが足りないこれが足りないといった不平不満を外に向けるなということです。最初から人間一人ひとりに与えられている資産は、それを正しく使うことによって無限の可能性を生み出すのであり、自分の欲しいもの、欲しい状態は他者にたまたま与えられるものではなく、自らの努力により獲得されるものだということです。
駅前ではパチンコ屋で開店前から並んでいる若者を多く見かけますが、かれらは特定の利益収奪システムに踊らされて、貴重な時間と金を失っているのです。一人ひとりに与えられた時間という資産を、ちょっとした幸運が得られるかもしれないという射幸心のために浪費するのです。「吾唯足るを知る」的に言えば、欲望のベクトルを変え、自分の長期的な目標を定めて、その実現のために自分の時間と頭脳を使うべきだということになります。
P.S.
先日、小林克也のベストヒットUSAを見ていたらHoobastankというグループの”If I were You”という曲が紹介されていました。この曲の歌詞がとても今回のテーマに合致していました。
(こんな歌詞です)
世の中は希望に満ち溢れているのに、君はあえて暗い部分だけを見ている
もしも僕が君ならば、与えられている全てのものに感謝する
洋の東西を問わずこのように考える人がいるというのは、うれしいことだと思いました。