【2011年2月14日の朝礼でのスピーチより】
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9日から2泊3日で長野の善光寺へ行ってきました。
長年参加している文化交流事業でサイパンからの子供たちが来日しており、善光寺の隣にある城山小学校にお世話になっているので、そのお手伝いをしてきました。
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久しぶりに長野新幹線に乗りましたが、平日の夜ということでどうせ空いているだろうと高をくくっていると、発車20分前なのにホームはすでに長蛇の列。反対側の上越新幹線も長野行以上に混んでいます。発車直前まで待合室で待っていようと思っていたのを考え直して列に並び、どうにか娘と二人分の席は確保しましたが、デッキには立ったままの乗客がかなりいる状態でした。そうした客はスーツを着た会社員風の男性がほとんどで、見ていると高崎や軽井沢で結構降りて行くので、通勤で新幹線を利用する人がかなり多いということがわかりました。
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長野からはタクシーで宿泊先の福生院さんへ。このお寺は宿坊といって参拝客などを宿泊させる設備が整っており、善光寺に連なる院や坊の中でも最も山門に近い場所にあります。ここの住職、村上光田大僧正は私の師匠の師匠のお弟子さんなので、坊さんの世界でいうと大おじさんに当たります。
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ちょうどこの時期、善光寺では長野灯明まつりというイベントが開催されていました。現地に行くまではこの祭りのことは全く知らなかったのですが、とても盛大に開催され、多くの参拝客でにぎわっていて驚きました。以前に来たのはもう10年以上も前なので、だいぶ印象が違いました。このイベントは今年で8回目だそうですが、長野オリンピックから何年も経ち、関連予算も少なくなってきており運営はなかなか厳しいようです。そういえば、善光寺から歩いて10分ほどの長野電鉄権堂駅前あたりを歩きましたが、10年前に比べて随分と寂れているような感じがありました。
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10日は子供たちを引率してきたサイパン市長と一緒に城山小学校を訪ね、クラスで生徒たちと一緒に過ごしているサイパンの子供たちの様子を見て回り、教頭先生と会談したり、新聞社の取材を受けたりなどしました。
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翌11日は車で下伊那郡阿智村というところにある「信濃比叡 広拯院」へ出かけ、「火渡護摩供」に参加し、サイパン市長には鏡割りをやっていただきました。鏡割りの意味を英語で伝えるのはなかなか難しく、ちゃんと伝わったかどうか怪しかったのですが、楽しんでもらえたようです。とはいえ、現地は大雪でスキー場のようになっており、坂道ではつるつる滑って転ぶ人が続出。この厳しい寒さには、1年中30度以上の気候のサイパンから来た市長も随分と辛かったとは思いますが、終始にこやかに護摩供養や火渡りの儀式をご覧になっていらっしゃいました。
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ただ、同じ長野県でも長野市内から下伊那までは、中央道が雪でチェーン規制がひかれたせいもあり3時間以上もかかってしまい、同県の広さを実感しました。
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「火渡護摩供」は柴燈護摩(さいとうごま)という野外で行う護摩供養で、どんどやきのようなものです。実際に護摩木と一緒に古いお札なども一緒に燃やします。執り行うのは福生院の村上大僧正と山伏姿の僧侶らで、この日は雪が降り続く中での幻想的なものとなりました。ただ、終了後に餅を配られて護摩の残り火で焼いて食べるというのはちょっと驚きでした。私が比叡山にいたときに護摩というのはとても神聖なもので、灰といえども粗末には扱えませんでしたから、とても気がひけました。
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今は東京から長野まで新幹線で2時間足らず、便によっては85分で行けてしまうのでとても便利です。善光寺も大勢の参拝客、観光客で賑わっていました。地方の衰退が叫ばれる中、地方の活力を見せてもらって喜ばしいことですが、権堂駅あたりの寂れ方が気になります。日光輪王寺内で住職をしている知人が以前に言っていたことを思い出します。日光も、東北新幹線ができるなど交通が便利になり確かに参拝客は増えるけれども、日帰りでも来られるので宿泊してくれない。つまり地元の旅館などにとってはかなり深刻だということでした。
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高速な交通機関ができて人々が簡単にあちこち旅ができるようになりました。また、インターネットなどの情報技術が発達して世界中の人と瞬時にコミュニケーションがとれる時代となりました。昭和30年代生まれの私にとっては、少年時代は夢だったことがどんどん実現しております。移動も通信も簡単にできるようになればバラ色の未来になると私などは単純に思っておりましたが、どうもそうでもない面も見えてきるこの頃です。