【2011年2月7日の朝礼でのスピーチより】

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大相撲が八百長問題で存亡の危機に立っています。この前の野球賭博よりも致命傷になるかもしれません。しかし、野球賭博は犯罪であるのに対して八百長は法に触れる行為ではありません。それなのになぜこれほど大騒ぎになるのでしょうか。

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今回の八百長騒ぎは、私のように40代以上の人々の中には、なぜそんなに騒ぐのか違和感を覚えている人が多いのではないでしょうか。ちょうど巷間でブームとなっているタイガーマスク、昭和40年代に小学生だった私などはこの世代です。そのころは馬場と猪木がヒーローで、老若男女問わずリングで繰りひろげられる死闘に大興奮したものです。小学生時分、遊びに行った母親の実家で祖母の部屋をのぞくと、そこには一人でテレビにかじりつきプロレス中継を見て「やれ!」、「そこだ!」とこぶしを握り締めて叫んでいる祖母がいました。見てはいけない物を見た気がしたものです。

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馬場や猪木が活躍していたそのころのプロレスは、もちろん真剣勝負もあったでしょうが多くは事前にシナリオが決められているプロレスショーでした。反則技を使う卑怯な外人レスラーに対して、最初は劣勢だった日本人レスラーが最後には逆転勝利する。そんな水戸黄門のようなシナリオで、視聴者は皆すっきりした気分で翌日の仕事に励む高度成長期。良い時代でした。そういえば、休日のゴールデンアワーはプロレス中継が多かったような気がします。

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しかし、そんなプロレスが八百長だなどと問題視されることはありませんでした。あるプロレスファンが、試合会場に早く着いたのでその辺をぶらぶらしていて、会場となる体育館の裏へ回ると宿敵同士のはずの馬場とブッチャーがキャッチボールをしていた、という笑い話もあります。小学校に上がった子供が、サンタクロースを半ば変だなと思いながらも「まあ、プレゼントがもらえるからそういうことにしておこう」と折り合いをつけるようなものでしょう。

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相撲というのは元々は能のように神前に供える神事が起源といわれています。その起源は古事記にも登場するほど古いものです。ですから礼とか型というものが重要になります。また、江戸時代には相撲観戦が娯楽となり巡業という形で地方を回ることになります。一か所で開催しているばかりだと、観客が動員できないのであちこちに出張するわけで、サーカスと同じです。そうすると、巡業先が地元である力士にとってはどうしてもいいところを見せたくなります。故郷に錦を飾るというやつです。そこで、星の貸し借りが生まれるわけです。名古屋出身の力士は、名古屋場所では福岡出身の力士に勝たせてもらい、その代わりに九州場所では負けてやります。これだけなら別段不道徳な行為とはいえませんね。

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相撲を観戦する主役は神様であり、力士は礼儀と伝統を重んじて日々精進する。人間である一般観衆は取り組みだけを見て勝った負けたと騒いでいますが、相撲は日々の稽古も含んだ普段の生活そのものが重要であり、神事を司る神主や巫女のようなものと言ってもよいかもしれません。だから相撲は伝統芸能です。

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相撲はそうして2千年余りにわたり連綿と存在してきたのですが、どうしたわけか時代の方が変わってしまったのです。グローバリズム、透明性、コンプライアンス、などという言葉が重視され、見えない物や影の部分の存在を許さなくなってきています。それと同時に外国人力士が活躍するようになり、伝統芸能である相撲が国技に祭り上げられ、無理やりスポーツにさせられてしまったのが今に至る問題の根源でしょう。

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我々世代にとっては、相撲というのは裏社会と密接につながっているというのが常識でした。タニマチと言われる地元の有力者はその筋の人が多かったようです。芸術やスポーツを支えるのは洋の東西を問わずパトロンとなる資産家ですが、そうしたパトロンは必ずしも公明正大に商売をしてきたとは限りません。裏の世界で稼いだ金を力士や芸能人のために使うのは、宣伝を兼ねた彼らのCSR活動なのかもしれません。映画「ゴッドファーザー」でも、彼と同じイタリア系の歌手をバックアップするシーンがありますが、この歌手はフランクシナトラがモデルだそうです。

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相撲というのは「ごっつあん」体質と言われるように、スポンサーからの物心両面での支援がなければ成り立ちません。収益の柱が興業(工業ではなく)なので、いかに観客を動員するか、ハコを抑えるか、タニマチ達の顔をつぶさないように彼らの調整を図るか。など、どうしても裏社会とつながることが避けられませんでした。そうした中でトラブルも起きます。戦前の話ですが、山口組の田岡一雄元組長が若いころに力士同士のもめ事に介入して宝川(たからがわ)という力士を切りつけて引退に追い込んだということもありました。野球賭博もそうした関係から、かなり古くから常態化していたのではないでしょうか。

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今(といってもこの数十年)になって相撲はスポーツだから真剣勝負しろとか、男女平等だから女も土俵に上げろとか、世界に門を開き外国人も参加させろとかいうのは、長い伝統を持つ相撲界にとっては甚だ迷惑な話でしょう。相撲協会の理事たちも難しい顔をして不祥事を起こした力士を裁いていますが、彼ら自身が若いころはどうだったのか、そのころはそれが常識として暗黙の認知を受けていたということから複雑な心境なのではないでしょうか。

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昨日のテレビ報道で石原都知事が単純明快に述べていました。「あんなもん昔からあたり前としてあった」という発言は、今の若い人には違和感があるかもしれませんが、昔を知る人には常識です。なぜ今になって騒ぐんだというのが我々世代の感覚です。

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どうも日本人が全体的に「些細なことに我慢のできない国民」になってきているような気がします。政治家に対してわずか1円の使い道まで明らかにしろとか、小沢一郎のいわゆるカネ問題で国会が大騒ぎするなど、もっと他に重要な事柄があるはずなのにと思うのです。些細な問題というのは構図が簡単で理解しやすいから人々の関心を持ちやすいのでしょうが、かつて日米安保で大騒ぎしたのと比べて、何とスケールが小さいのでしょうか。相撲がGDPに与える影響など知れています。今の子供たちは別に相撲など見ませんから教育的意味合いもありません。そんな相撲の世界で起きた、たかが勝ちや負けを調整したという程度の話は、三面記事の隅っこにでも載ればよいという程度の問題です。

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ただ、相撲の世界が賭博や八百長まみれで良いとは思えませんし、公益法人として税金を免除されるからにはそれなりに自浄努力していく必要はあるでしょう。色々と問題があるなかで、新弟子に対するいじめというのも深刻です。幕下と十両では天と地ほどの差があるのも、モティベーションを高める効果がある半面、勘違いした上下関係を醸成することになります。たまたま体格に恵まれていて精神が子供なままの十両力士が、幕下の付け人に傍若無人にふるまい、それを容認する相撲界の体質は、結局は相撲自体の衰退につながります。今の日本の若い人はそんな世界で耐えていこうとは思いませんから、新弟子に応募する人がいなくなるのは当然です。

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十年以上前、福岡出張で中洲のカラオケバーでそこの女の子に聞いた話です。九州場所の最中、髷を結った十両以上の力士と付け人のグループが店にやってきたそうです。そのうち酔いが回って悪ふざけが始まります。この十両力士、やおら羽織の前をはだけると、水割りの入ったグラスに自分の陰嚢を浸しました。何をするのかと見ていると、今度はそのグラスを付け人に突き出し「これを飲め」と強要したそうで、あまりにひどい光景だったとその女の子は憤慨して語っていました。そのような行為がまかり通るのですから、一般社会とはいかに常識がずれているかということです。

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昨年の夏、かつての名横綱大鵬の実家がある川湯温泉に行ってきました。さびれた感じの温泉街の道路わきに「大鵬の生家はこちら」というような看板がありましたが、大鵬と聞いても誰のことか知らないという世代が増えており、おそらく訪れる人もわずかでしょう。すぐそばの神社に、立派な土俵が残っていたのが往時をしのばせます。そろそろ、これまでの大相撲というものが変わっていかなくてはならないときに来ているのかもしれません。

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