先週、今年つまりこの3月に卒業するという学生さんが2名応募してきました。世間一般からするとずいぶん遅い就職活動ですが、私も似たような経験をしてきているので他人事とは思えませんでした。そこで今回は、私の就職活動を参考までに話したいと思います。この時期はどうしてもこういう話題になりますね。

私は1980年に日本工学院専門学校に入学しました。選択したコースは情報技術科といって、コンピュータのハードウェアを学ぶ所でした。この科は大変厳しくて有名で、入学時150人くらいいた学生が、2年生になるときは半数に減り、卒業できたのは1/3程度だったと思います。

入学したばかりの頃は学生が多くてギュウギュウ詰めだったので、教室が狭いという苦情が出ましたが、それに対して先生は「夏休みを過ぎれば空くよ」と涼しい顔でいいました。最初その言葉の意味が良くわかりませんでしたが、実際夏休みを過ぎるとかなりの人数が学校に来なくなり、確かに教室はゆったり使えるようになりました。

この学科には熱心な先生がたくさんいましたが、中でも浜崎先生(尊敬をこめて実名で表記します)は熱血指導で有名でした。遅刻して挨拶なしで教室に入ってきた学生にはビンタを喰らわせていました。この先生の言葉でよく憶えているのは、「フィールド(社会)に出たら自分の稼ぎで飯を食え」、「派遣会社には就職するなよ」というアドバイスでした。しかしながら、この言葉の意味を理解するのは卒業して何年も後になってからでした。結局私は、派遣社員として社会人のスタートを切ってしまいました。

私は、高校時代は寺で小僧をしていてまったく遊ぶことが出来なかったので、その鬱憤晴らしというわけではありませんが、専門学校に入ってからは学校をサボってマージャンをしたり、映画を見に行ったりする仲間とつるんでしまいがちでした。それでも何とか2年生に進学できましたが、私の遊び仲間は皆、留年してしまいました。

2年になると、親しい友人は(留年して)いないし、コンピュータ実習ではオタク系学生がマシンを仕切っていてその輪に入ることができず、自然と学業がおろそかになり試験は赤点ばかりということになっていきました。そんな状況でしたので、学校からの卒業見込みがもらえませんでした。卒業見込みがもらえないということは、就職活動ができないということです。

ところで私は、先の浜崎先生が紹介してくれた会社で、1年生の後半からアルバイトを続けていました。この会社は、遠心分離機などを製作していて、同じ学科のOBが経営しているハードウェア会社でした。この会社では学校からアルバイトを募集して、見込みのある学生はそのまま正社員として採用するケースが多かったのですが、どうも私はお眼鏡に適わなかったらしく、社員にならないかというお誘いはいただけませんでした。

そのようなことでずるずると時間が過ぎていき、2年生として就職活動をすることなく年の瀬を迎えました。まもなく正月ということで、比叡山の師匠のところへ年末年始の挨拶に行きました。師匠の俊照阿闍利のところへ行って、その後、師匠の師匠で、京都赤山禅院の叡南覚照住職(私たちは御前様とよびますが)にお会いした際、就職のことで進路が決まらないという話をすると、京都でソフトハウスを経営しているK社長を紹介してくれました。

そのときK社長と会ったのか、電話で話したのか、今ではよく覚えていません。その後、京都の本社に行ったことと、K社長が上京したときに、私の両親と共に話しをした記憶があります。私はハードウェアの仕事がしたかったのですが、K社長が「うちも将来はハード絡みの仕事をやっていきたいと思うから、うちに来ないか」と誘ってくれたものですから、他にあてもないし、主体性というものがほとんどなかった私は、フラフラとその会社に入社させていただくことになったのでした。

ちなみに、覚照住職のところへはCSKの故大川会長も信者としてお見えになっていたので、その関係でCSKに入社した知り合いもいました。もしも私がCSKを紹介されていたら、また違った人生になったかもしれません。私は大川会長にはお目にかかったことはありませんが、寺には会長からもらったというチャウチャウ犬(アイコという名前だったかな)がいて、行くといつも撫でてやるのですが、その後手がとても臭かったのを覚えています。この種の犬は体臭がきついようでした。

このような形で安易に就職してしまった私ですが、そのツケは後からやってくることになりました。そのあたりの話は既にしたと思いますが、いずれにしろ私の就職活動はこのように惨めで情けないものでした。

学校の方は卒業できないままに4月を迎え、当然ながら卒業式にも出席できませんでした。一時は卒業をあきらめかけましたが、5月の連休中に徹夜して何とかレポートと卒業制作のワンボードマイコンを仕上げ、学校側もどうにか卒業を許可してくれることとなりました。卒業制作担当のK先生が、私の作ったワンボードマイコンの出来具合(自作のアクリルケースにインスタントレタリングで文字を貼り付けたもの)について「お前もちゃんとやればこんなに素晴らしい作品が出来るんじゃないか」と褒めてくれたことを、素直に嬉しく感じました。また、職員室で卒業証書を手渡されたとき、「僕が学年で最後の卒業生ですね」などと意味のない確認をして帰ってきたことを憶えています。

今活躍している企業の社長の中には、学生時代から起業を目指していたり、大学生のうちに会社を興して成功している人もいます。先日も東工大のセミナーで、学生でありながら既に会社を起こしている学生がいましたが、大変覇気があり私の学生時代などとは月とスッポンで、比べ物にならないほどしっかりしていました。また、今通っている大学院(アントレプレナー専攻)でも同じように起業している学生がいます。しかし、実際はそのように目標をしっかりと持った学生は一握りで、多くは私のように就職を目前にして戸惑い、悩み、迷っている学生が過半数ではないかと思っています。まあ、それでもよいではありませんか。人生のテイクオフは無様でも、いつか目標をもちさえすればきっと上昇気流に乗れると私は信じています。

「情けない就職活動」への2件のフィードバック

  1. こんにちは。日本工学院、濱崎先生でぐぐったらここにたどりつきました。HD17期です。今組み込みをやってます。濱崎先生は本当にすばらしい先生でした。今どうされているのでしょうか?あの先生に出会えただけでも情報技術課に入学してよかったと思います。

  2. 同感です。
    ただ、私は今でもこの学校によくお邪魔しますが、熱意を持って生徒と向き合っている先生は沢山いますよ。
    弊社の「お問い合わせ」ページから私にコンタクトいただければ先生の情報をお知らせできますので、よかったらどうぞ。

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