【12月21日の朝礼でのスピーチより】

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社員旅行で北海道へ行く時、7歳の長女にお土産は何がいいかを尋ねた。すると娘は「ケン玉を買ってきて」と答えた。半年以上前に近所の公園で地域のイベントがあり、ボランティアのおじさんがケン玉を教えており、娘が熱心に遊んでいたのを思い出した。そんな前のことを思い続けていたのであろうか。しかし、娘の同級生の親の話を聞くと、子供が欲しがるのはゲーム機だったりするのが普通、小学校2年ともなればそれが当り前であろう。しかるに、「ケン玉」などと、古典的なおもちゃを欲しがる娘にはよくできた子だとわが子ながら感心する。そして、「ケン玉」を買ってきてやると約束すると、「うん、楽しみに待ってる」と言って寝床に入った。なんといじらしい子だろうかと親ばかモードにスイッチが入る。

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しかし、札幌に行ってからあちこち探したが、いまどき「ケン玉」などはなかなか見つからない。狸小路という観光客相手の土産物屋が立ち並ぶ通りを見て回ったし、ドン・キホーテで店員に聞いてもみた。結局北海道では見つけることができず、娘との約束は果たせなかった。旅行から戻って娘にどこにも売っていなかったと言い訳をしたが、特に文句を言うでもなくだまって許してくれた。こうなると何としても約束を果たしたい。

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そして2週間後、関西への出張。今度こそはと思って忙しい予定の中を土産を買うためだけに滋賀県の草津から京都へ出かけてきた。すると、京都タワーの土産物屋でようやく昔ながらの「ケン玉」を見つけた。1,250円、意外と値が張るものであるが、そんなことは構わない。約束が果たせるなら安いものである。そこは修学旅行の高校生が京都タワーの置物やペナントを買いに来るようなベタなショッピングセンターであるが、今回は大感謝である。

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家に帰ると、さっそく娘に戦利品を見せてやる。案の定大喜びで遊び始めた。なかなかうまくできずに私のところへ持ってきてやって見せてくれという。10回ほどトライしてようやく大きな方の皿に乗せることに成功。娘との約束を果たし、手本を見せて父の威厳を示すことも出来て私的にも大満足であった。

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子どもというのは、木のおもちゃ一つで幸せになれるのだから、安いものである。しかし、人間の幸せというのは本来何も持たないからこそ得られるのではないだろうか。誰しも子供のころは何も財産は持っていないし、お金を得るすべも知らずに生きていた。しかし、それでも何の不安も感じなかったし、人からちょっとしたものをもらうだけでもうんと幸せを感じることができた。

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仏教でもキリスト教でも、教団に入って教えを極めるにはすべての財産を手放して無一文となるところから始める。なまじ色々な物を所有するから還って迷いや苦悩を生じさせるのであろう。もちろん、今から思い切って無一文になることなど私には到底できはしない。

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だが、基本は何も持たない状態、つまり生まれたままの姿というのが人間の基本なのかもしれない。死ぬ時もあの世へなにも持って行くことは出来ない。モノを所有するからそれを守ろうとして苦しむ。自分の持っているものと人のものとを比べて羨んだりねたんだりする。実際に地位や財産を捨て去ることはできないが。

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資金の運用に失敗して無一文となったアメリカの著名な投資家が語っていた。金のある時はいつも耐えがたいストレスにさらされていたが、無一文となった今はとても心が安定していると。そして、今ではこの平穏な生活が何にも代えがたい喜びに満ちていると。かつては高級家具に囲まれた広大な屋敷に住んでいたが、心は一向に喜ぶことはなかったらしい。しかし、狭い借家暮らしとなり、ベニヤ板の安物の机しかないような生活となっても幸福と感謝する気持ちに満ち溢れているらしい。破産したことは他人から見れば不幸かもしれないが、この人にとってはそれが幸福な生活のスタートだったのである。

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月に1回、蒲田と大森の間にある大学病院へ通っている。(別に病気というわけではないが、定期的に漢方薬を処方してもらっている。) この界隈は私が6歳まで生まれ育った場所で、周囲を歩いているとそこかしこにかつての雰囲気を感じさせる風景が残っていて、幼い頃の思い出に浸ることができる。

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幼い頃を思い出すと、悲しいことやつらいこともあったにはあったはずだが、幼年時代という一時気を総体的にみると、とても幸福感に包まれた時代だったように思う。親に叱られても、友人と喧嘩して傷だらけになっても、なんだかそれらがとても楽しい記憶として残っている。

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幼年期のころは手元に1円もなくても何も困ることはなかったし、明日のことなど心配することもなかった。何も持っていなくても十分に幸せだったし、何かを所有しなければならないと焦ることもなかった。だから、大人になった今でも、折に触れ、何も持っていなくて元々と思い、それでも十分幸せだったことを思い出すだけでなんだか気持が落ち着くことがある。ドストエフスキーが「カラマーゾフの兄弟」の中でアリョーシャに言わせている。人にとって子供のころの神聖な美しい思い出は、最高の教育であり、大人になって道を踏み外すことがあっても悪から引き戻してくれると。

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