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平成の世になってから、昭和の時代が妙に懐かしいものとして脚光を浴び、特に昭和30年代は夢と希望にあふれた特別な時代として語られるようになってきた。
私は昭和37年生まれだが、物心ついた時にはすでに40年代になっていたので、光り輝く30年代を直接記憶しているわけではない。しかし私が幼少期を過ごした40年代初頭は30年代の延長であり、まだまだ十分にその雰囲気は残していたので、自分の人生の記憶の出発点はそうした30年代の情景そのものであったといえる。


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私が生まれたのは昭和37年の3月、生まれてから6歳まで京浜急行の蒲田駅と梅屋敷駅の中間くらい、東邦医大通り沿いの長屋の集落の中に住んでいた。落語に「三軒長屋」というのがあるが、私の住んでいたのは平屋を2つに区切ってあったので二軒長屋となる。そうした建物たちが、どんつきは行き止まりとなる狭い私道を挟んで並び立っていたのである。建物は木造のいわゆるバラックのような建物で、6畳と4畳半の2間と1畳ほどの台所と0.5畳の便所しかないような間取りであるが、子供の私は別段狭いとも感じなかった。当時はみなその程度の家に住んでいたので、ことさら自分が貧乏だなどとも思わなかった。


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当時、休みの日の昼飯はよく店屋物をとった。今のように宅配ピザなどはなく、もっぱら近所のタイガー食堂というそば屋から出前を頼む。親父はそこのカレーうどんが好きで、うどんを食べ尽くすと、余ったカレーの汁の中へ家に残っていた冷や飯をぶち込んでさらにカレーライスにして食べていたものである。


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店屋物を食べ終わると盆と食器は家の外に出しておけばそのうち店員が下げに来る。このとき、器をきれいにして返すか、少し残飯も残して外に出すかは、いろいろと作法があるようだ。さらっと洗うのがマナーのように感じるかもしれないが、地域によっては洗うということは「金輪際お前の所からは注文しないぞ」という意思表示になることもあるらしい。つまり、おつきあいを洗い流すということを意味する。逆に、多少残して返すと、「まだまだ修行が足らないが、これからも贔屓にしてやるから精進せいよ」というような、「今後もよろしく」的な意思表示になることもあるらしい。


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我が家では後者の方で、そばの屑(短く細切れになっているだけで、屑というのはそばに申し訳ないが)などがだし汁に残ったままのどんぶりや、そばが数本残ったままのざるそばや猪口を外に出しておくのが普通だった。ちなみに、我が家ではご飯のお代りのときに少しだけご飯を残してお代りするというのがしきたりだった。親父のこだわりがあったのだろう。


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ある日、いつもと同じようにタイガー食堂からの出前で昼食を済ました。しばらくして玄関へ行くと何やら人影が見える。そこで、ガラス窓に伸びあがって外を見ると、汚い格好をした見知らぬ人が、外へ出しておいた店屋物の食器類を漁っていたのが見えた。我が家の昼食の残飯を貪り食っていたのである。驚いた私は居間に戻って両親に「だれか知らないおじさんが勝手に食べてるよ」と訴えた。私にとっては大事件であったが、両親は何気ないそぶりで「何でもないよ」と取り合ってくれなかった。自分の目ではっきりと見たにもかかわらず、両親に黙殺されたので大変に憤りを感じたことを覚えている。


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おそらく父も母もそうしたことは十分承知だったのだろうし、そういうことが当たり前の時代だったのだろう。私たちの遊び場である長屋の私道に入り込んで、人の家の前の残飯を漁る男、というのは子供にとっては恐ろしい相手だが、大人たちはそれを平然と受け流していた。もしかすると、店屋物の残飯を洗い流さずに外に出しておくという習慣は、こうした人たちへの餓鬼供養(施餓鬼)のようなものかもしれない。高校時代に過ごした比叡山の寺でも、食前のお勤めのあと、食事に口をつける前にそれぞれが自分の器から米粒を7粒(といってもおおよそ)ほど箸で金(かね)の皿に移した。その皿は外に出してある鳥のエサ台に乗せられるのである。


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そんな出来事から何十年も経って、ある時父が昔を振り返ってこんなことを述懐したことがあった。「通りをリヤカーを引っ張って歩く親子の乞食がいた。まだ幼い子供が何かをせがむと、親は懐から何か怪しげな食物を取り出し子供の口に放り込んだ。そのとき、子供がなんとも言えない幸福そうな顔でそれを頬張った。それを見たとき、人の幸せというのは金や住む家があるということだけじゃないんだなあと感じた」
こんなことを父がしみじみ語るのは珍しいことだったが、母は「何いってんの」と取り合わなかった。しかし、私にはこの父の言葉がとても印象に残っているのである。


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昭和30年代というと、なにか希望に向かってまっしぐらという明るいイメージがあるが、当時はその日の食事にも困っている人も多かった。また、浅草などの盛り場へ行けば傷痍軍人が白い服を着て義手義足をつけてアコーディオンを弾いていたりしたが、その光景は子供心にとても恐ろしいものであった。この時代、明るいイメージも強い分、暗い面もより一層その影を濃くするのではなかったろうか。

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