私がフリーで仕事をしていたのは24歳からのわずか1年間である。その後、フリー契約の管理をしてもらっていたE社に入社することになる。E社のS社長はそのころ40前後とまだ若かったが、価値観が合うし尊敬できる人物だったので社員30人ほどのこの会社に世話になることにした。

社長の人物からして、その会社もきっとよい雰囲気を持っているのだろうと想像して出社1日目を迎えたが、実態は必ずしもそうではなかった。社員の中にはいい年をしていながら妙に幼稚な人間や、ちょっと美人の女子社員がいて、それをちやほやと取り巻く情けない独身社員連中がいたり、一番仕事のできそうな人間も派遣社員だったりしてかなり期待はずれだった。

その日の昼休みの時間を迎えたとき、初出社日だった私に「お昼一緒にどうですか?」などと声をかける社員は一人もいなかった。S社長がいればそういった気遣いをしてくれたであろうが、社長はその日は留守であった。私は誰かと馴れ合いたいとかいう気持ちもないし、寺での生活に比べれば会社での仕事などままごとのようだったから、別段寂しいとか思うことはなかったが、客観的に見て情けないと感じた。それでも、こちらから「この辺だとお昼はどこで食べるんですか?ご一緒してもよろしいですか?」と声をかけて、とりあえず馴染むことにはしておいた。私はS社長が好きだったので、私を誘ってくれた彼の面子を立てるためにも、「社長は変なやつを連れてきた」と思わせたくなかったので、社交的に振舞った。だが彼らも決して排他的なわけではなく、そのように声をかければ快く受け入れてくれるし、色々と会話もしてはくれるのであった。

ただ、しばらく観察しているとこの会社は特定の社員同士が妙に仲良しだった。バイクの同好会のようなものがあり、プライベートでもツーリングなどの活動をしていたが、それは自然発生的にできたいわゆる「仲良しクラブ」に過ぎなかった。仲のよいのはこういった仲良しクラブのメンバー同士に限ったことであり、見ていて気持ち悪いくらいベタベタに馴れ合っていた。そのグループに属している人間の中にも、なんとかそのグループの中からはみ出さないようにへーこらしているような者もいて、気の毒に感じるほどだった。

その後少し経ってからS社長と飲みに行く機会があったので、新入社員がいるのに昼に一人も声をかけてこないということについてがっかりしたということを話した。社長は少々気まずそうな顔をしていたが、何から何まで社長のせいというわけではないのだから、今思うとこんなことを伝えたのは気の毒なことだったと後悔している。社長からは「君が中心人物になってくれ」というような事を言われたように記憶している。

そうは言いながら、それから半年くらいの間に一緒にスキーに行く仲間もできたし、車好きの友人や、私が声をかけてスポーツクラブへ通うグループを作ったり、私のライブに常連としてきてくれる仲間もでき、結構楽しくやっていたのである。

ただ、その後に入ってきた新人社員に対しても相変わらず同じような扱いだったが、これは社員全体が人見知りするというか、自分のことだけで精一杯というだけで、別段悪気があるわけではないのであった。

そして今、自分が会社に対して責任を持つという逆の立場になって自分の会社がそのような大人の気遣いができているのかどうか、はっきり言ってよくわからない。今の立場からはそういったことが見えづらいのである。

最近見聞きした話である。生まれつき顔にひどい腫瘍のある少年がいた。小学校のときにそれをネタにいじめにあったので、両親がある私立小学校へ転校させた。その学校ではいじめは一切なく、後に彼に医学の道に入るきっかけを作ってくれるような親友もできたそうである。おそらく大学までそういったよい友達と交流を深めながら、ついに彼は医学博士になるのであった。そんな彼が大人になって参加した同窓会で、このような話をはじめて友人から聞かされるのである。それは、彼が転校してくる前に開かれた学級会でのこと、今度顔に腫瘍を持った子供が転校してくるが、そのことについてどう対応するかといった議題であった。そこでクラスで討議した結果、その転校生と例えひどい喧嘩になったとしても、顔のことだけは絶対に言うまいという紳士協定が結ばれたというのである。この話に私は非常に感動した。

今日の話は「大人の気遣い」というものであるが、これは必ずしも年齢を重ねて大人になったからできるということではなく、今の話のようにたとえ小学生であっても立派にそういった振る舞いができるのである。このクラスの雰囲気というものは自発的に生まれたものではないと思う。それにはこの学校の教育方針や親や先生たちの強い指導があってのことだと思うが、そういった環境さえ整っていれば、たとえ小学生でもかほどに大人の気遣いを発揮することができるのである。昨今いじめによる事件が頻発しているが、子供自体の性質は先の私立学校の子供たちとなんら変わらないはずである。環境や指導が悲劇を生むか感動を生むかの違いを生み出していると思う。

大人とは、自分のことは十分にできていて、その上で他人のことも気遣うゆとりのある人のことだと思う。年だけ30、40、あるいはそれを過ぎても、そういう意味で大人になれない人が結構大勢いるのではないだろうか。

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