【2011年1月17日の朝礼でのスピーチより】

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ちょっと前に、ある流通大手企業がお布施の相場価格を公示、体系化しようとして話題になったことがあります。これは利用者からすると安心できる話かもしれません。これまでお布施や祈祷料などは、お寺側から「お気持ちで結構です」といわれることが多く、そのお気持ちの値段あるいは、相場というものが不明瞭で、利用者からするといくら払えばよいのか、それが妥当な価格なのか(ぼったくられたのか)がわかりにくいという不満があったからでしょう。

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お布施の金額を、そのような不便であいまいな状態にしてきたお寺側に責任があるのでしょうか。よく、「坊主丸儲け」などと言いますが、果たしてそうなのでしょうか。

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巷間、有名人の葬式が著名な大寺院で行われ、戒名料が1,000万円だったなどと騒がれたりしますが、このような話は特殊な例です。有名人であれば世間に話題を振りまくことで生活が成り立っているようなものですから、有名税のようなものです。いくら大寺院で葬式をやるとしても、一般の人がそのような高額なお布施を心配することはないと思います。

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かなり前に、比叡山で私の属する一門の仲間が師匠の誕生日を祝う会かなにかで集まったことがありました。夜になると、同じ釜の飯を食った気心の知れたもの同士で、よもやま話に花が咲きました。その時に、上野の寛永寺からきたY氏が、「この間、有名芸能人の○○さんの葬儀に呼ばれたけれど、一人あたり○○万円もらったよ」と興味深いことを言いました。すると、千葉の田舎にある寺の跡取りのTさんが、「ええっ、そんなにもらえんの?」と驚いて叫びました。そして、「俺なんかゲンチャリ飛ばして1時間もかけて出かけて行ってこれしかもらえなかったよ」と指で1か2の数字を示し、げんなりした顔でため息をつきました。

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このように、同じお寺でも格差はありますし、当然ながら檀家さんの生活レベルによって額も変わってきます。しかし、持てる人はたくさん、持てない人は気持ちだけというのが基本です。つまり相対的な(あるいは身分相応な)金額がお布施の額となります。

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確かにあいまいかもしれませんが、何でもかんでもこれはいくらといえるほど世の中は単純ではありません。一口にお布施といっても、日頃どの程度お世話になっているのか、法要のために僧侶に足を運んでもらうのか、こちらから寺に行くのかなどによっても額は変わってくるでしょう。そうした時に大切なのは、相手の立場になって考えるということです。

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なんでも透明性をというのは、日頃の人間関係にはあまりなじみません。江戸時代に使われていた時間、子の刻とか言うやつですが、これは西洋の時間のように絶対的なものではなく、季節によって変わるもので、日が暮れたら何時、日が昇るのは何時という具合に人間の体感を中心にしたものでした。日本の音楽、雅楽もその日の天気や湿度などにより、基準の音を微妙に変えたそうです。西洋ではA(ラの音)といえば440Hzという絶対的なものに対して、日本では人間の感じ方に合わせた相対的なものだったのでしょう。

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大体、人に何かをしてもらった時、それがどの程度の価値なのかを感じる能力(感性)をなくしてはいけません。だれかに家の修理を頼んでそれが1日仕事だったとして、お礼に1,000円を渡せばよいと思う人はまずいないでしょう。大工さんの日当は2万から3万が相場です、そこに車両を持ち込んだり材料を使ったりしたら、その分も経費としてかかります。

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医師の資格を有する人や弁護士に何か頼んだらどうでしょう。彼らが月収100万円くらいと推察するのは常識の範囲だと思います。100万円というと一般のサラリーマンからすると高額ですが、彼らはそのために多額の投資をしてきています。月収100万ならば、日当は5万円、時給は7千円程度と推測できます。医師や弁護士に1時間相談したら、1万円というのは妥当な金額なのではないでしょうか。

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お寺の場合は、営利企業とは性格が違います。自分の親が世話になった分をその子がお返しするとか、非常に長い時間軸で付き合いをとらえますし、昔は寺が地域の共同体としての機能を持っていたので、寺に支払うお金が回りまわって結局自分自身が受益者として受け取ることもあるわけです。

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寺には維持費が結構かかります。本堂の修理や風水害に対する備えなど、一般の家屋とはけた違いに経費がかかるはずです。そうした事を考えると、お坊さんに葬儀に来てもらったら、日当相当の金額にかけることの人数分は払うのが筋でしょう。また、葬儀の場に来て読経をする以外にも、参列者に法話をすることもありますが、何をどのように話すかを推敲したりするのにもコストがかかっています。決してその場の思いつきで雑談をしているわけではないのです。寺にあっては卒塔婆に筆で文字を書き入れたり、事務処理なども必要になってきます。

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そう考えると、葬儀などでお坊さんを長時間拘束する場合は一人につき10万円、通夜も通してなら20万円というのは、決して高くはないでしょう。しかし、それ以前に自分たちがたまたま不幸な境遇にあり、十分な対価を払えないとしても、医者や弁護士のようにそのことで診療や相談を受け付けないということはないでしょう。そこがお寺のありがたさです。「いつかその時期が来たら、その気持ちがあればお返ししてくれればよいですよ」というのがお寺です。お布施の体系化は、そのような相手の立場と自分の立場を踏まえてものを考える習慣を奪うような気がします。

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私が毎年お手伝いしているサイパンの慰霊法要には、中学生高校生を無料で現地に連れていき、1週間の滞在費から旅費までと、それまでに準備会として行う研修費用もすべてを主催者のお寺で負担します。基本的に無償でお連れするわけですが、お気持ちがあればということでお布施を受け付けておりますが、それに対して怒ってくる親がいるので困ったものです。

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「タダだというから子供を参加させたのに、お布施を頂戴しますとはどういうことだ」というのが言い分です。例えば、あなたのお子さんの同級生のご家族が、ディズニーランドへ行くからあなたのお子さんも一緒に連れて行ってあげましょうと言われたら、あなたは「こりゃタダで1日子供を面倒見てもらってラッキー」などと考えるでしょうか。当然ながら、往復の交通費、ディズニーランドのパスポートチケットの費用、小うるさい自分の子供の面倒を見てもらう相応のお礼分など、1万円から2万円相当のお返しはするのが常識でしょう。

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相手のしてくれたことに対して、どの程度のお礼をするかに頭を悩ませるのは、人間として社会生活をするうえで必要なことなのではないでしょうか。

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