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先日の入社式に比叡山から講師としてお越しいただいた栢木寛照師と、その翌日千鳥ヶ淵の桜を見に行った。桜は見事に満開で行き交う人の雑踏にもまれながらもその美しさを堪能した。
その後ホテルのラウンジでかなり長いこと雑談を交わした。
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話題は自然と昔話になり、こんなことを思い出した。比叡山で千日回峰行を行っていた師匠の元で小僧をしていた時代のこと。回峰行中は交代で我々小僧が一緒にお供をする。夜の2時頃出発して翌朝6時か7時くらいに帰り着く約30Kmの道のりである。
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根本中堂を回ったあと、西塔から横川(よかわ)へ向かう道の途中、一切言葉を発してはいけない区間を過ぎ、尾根づたいの峰道を延々と歩くとやがて玉体杉と呼ばれる大きな杉に出くわす。しかし、夜なので杉の姿は私には殆ど印象がない。それよりも、眼下に京都の町が一望の下に見渡せる場所にいることに驚く。杉の根元に石のベンチ状のものが置いてあり、ここに師匠は京の都へ向かって腰掛け祈り始める。ここは御所に向かって玉体加持(天皇の安泰を祈る)場所である。
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それまで黙々と足元を見て歩いていたのが、突然京都の町を一望に見下ろすのである。夜の霊気に包まれた京の町はその特徴的な碁盤の目に沿って照明が光り輝いている。それを見るとなぜだか自分の存在が小さく思え、日々の悩みなど取るに足らないことのように感じられるのである。それと同時に何か大きく広々とした気持ちになってくる不思議な場所で、回峰行のコースで私にとってもっとも印象深いスポットだった。
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そんな思い出話をしたら、寛照師が宇宙飛行士の話をしてくれた。地球の引力から逃れて遙か宇宙空間に飛び出した飛行士は、故郷である地球を遠くから眺めるというごく限られた人間にしかできない体験をするのであるが、そのときに神の存在を確信することがあるという。ごみごみとした喧噪に身を置いている日常では気づかないが、遙か遠くから眺めてみるとそこに神々しさを感じるという。日本人の宇宙飛行士の野口さんは、神の存在とは思わないまでも、「人間の力の及ばない、何か非常に大きな自然の摂理のようなものを感じた」と語っている。
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人間は色々なことで悩み、不安を感じ、恐れを抱く。しかしそれらは物事にあまりにも近寄って見ているからこそ感じることが多い。一度大所に立ち戻り、高いところから俯瞰で見てみると、それらが些末な出来事と思えてくる。
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私は宇宙空間から地球を眺めることはできないが、写真などで疑似体験してみると、地球はなんと豊かなのか、自然はなんと美しいのか、自分はなんと恵まれているのかという感謝の気持ちがわき上がってくる。こうして少し、人生の息抜きをするのも大切である。過酷な回峰行のルートにこうしたほっとする場所があるのも、そうしたことを教えんがためなのかも知れない。