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9月に入ってもいまだに暑い日々が続いているが今年の夏も間もなく終わると思うが、まだ夏に入ったばかりの7月のある日、夕立の後に激しく日が照りつけ、目黒の路上はうだるような暑さだった。
向こうから自転車の前部に2歳くらいの子供を乗せた母親が走りすぎた。その子供を見ると、強烈な暑さにも関わらず平然と涼やかに座っていた。それをみて、自分はいつから暑いということを不快に感じるようになったのか思いをめぐらした。

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私が子供のころは、いくら暑くても平気で外で遊びまわっていた。
父が「今日は蒸し暑いなー」と言ったのを聞いて、虫が熱くなるとはどういうことだろうかと不思議に思った。10歳くらいの頃だろうか。少なくともこのころは「蒸し暑い」という概念を持っていなかったし、その言葉を知らなかっただけではなく「蒸し暑い」という状態を不快とも思わなかった。

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人は言葉を覚えると、それを感じてしまう様になるのではないか。嘘かどうか知らないが、こんな話を聞いたことがある。アメリカ人は肩が凝るということがなく、当然ながら英語に「肩凝り」という言葉もないそうだ。しかし、アメリカ人が日本で暮らし始め、「肩凝り」という概念を知ったがゆえにその人も「肩凝り」を体験するというものだ。

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私はどうも高いところが苦手である。飛行機や山の上から下界を眺めても別に怖くはないが、微妙に揺れる歩道橋や観覧車などは大変恐ろしく感じる。しかし、子供のころは平気で木登りもしたし、揺れるつり橋も喜んで渡った。いつの頃からかそうした場所がとてつもなく怖くなってしまった。これも「高所恐怖症」という言葉を知らなければきっと今でも高い所を恐れるということはなかったであろう。

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言葉の持つ力というのは感情や心理的作用のとどまらず、時として体に物理的作用まで及ぼすようだ。だから、自分は「根性がない」とか「消極的だ」などと思わないことである。人に対してもそのような消極的な言葉を言うべきではない。

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