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伊崎寺

【2010年12月27日の朝礼でのスピーチより】

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12月23日に琵琶湖の東にある伊崎時というお寺にお参りに行ってきました。ここ数年、年末にここをお参りするのが習慣となっております。ここには、一緒に小僧時代を過ごした上原行照師が住職をしておられます。
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ここはもともと伊崎島という名前の通り島でしたが、昭和の干拓事業により現在は地続きとなっています。伊崎寺は、このとても小さな島の中にある唯一の建築物ですから、島を一人占めというぜいたく感があります。
航空写真を見るとわかりやすいですね。

大きな地図で見る
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車で行けるのは、島から1Kmほどはなれば場所なので、そこからは細い参道を歩いていかなければなりませんが、この参道を歩いていると駐車場では琵琶湖の湖水と同じ高さにいたのに、いつの間にか湖を見降ろす高い位置に自分がいることに気付き、とても風情があります。
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琵琶湖に浮かぶ島ですから、昔の人々は船でお参りしていたそうです。このあたりは近江八幡の水郷地帯で、人々は交通手段として普通に船を利用していたので、島で生活したりそこにお寺があることも別段特別なことではなかったのでしょう。
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お寺の下には小さな専用船着き場があります。昔はこちらが唯一の入り口だったので正面になり、立派な山門と石段があります。行照師に聞くと、今でもプロパンガスなど資材は船でこの船着き場に届くそうです。

 

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琵琶湖を背景に

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琵琶湖側から見上げる山門

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今年修復された庫裏

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上原行照師と


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安土城や近江八幡を訪れた人は、ぜひ一度この伊崎時を訪ねてみてはいかがでしょうか。上原行照師に私のブログを見たと言えば、歓迎してくれるでしょう。(たぶん)

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お布施の金額

【2011年1月17日の朝礼でのスピーチより】

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ちょっと前に、ある流通大手企業がお布施の相場価格を公示、体系化しようとして話題になったことがあります。これは利用者からすると安心できる話かもしれません。これまでお布施や祈祷料などは、お寺側から「お気持ちで結構です」といわれることが多く、そのお気持ちの値段あるいは、相場というものが不明瞭で、利用者からするといくら払えばよいのか、それが妥当な価格なのか(ぼったくられたのか)がわかりにくいという不満があったからでしょう。

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お布施の金額を、そのような不便であいまいな状態にしてきたお寺側に責任があるのでしょうか。よく、「坊主丸儲け」などと言いますが、果たしてそうなのでしょうか。

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巷間、有名人の葬式が著名な大寺院で行われ、戒名料が1,000万円だったなどと騒がれたりしますが、このような話は特殊な例です。有名人であれば世間に話題を振りまくことで生活が成り立っているようなものですから、有名税のようなものです。いくら大寺院で葬式をやるとしても、一般の人がそのような高額なお布施を心配することはないと思います。

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かなり前に、比叡山で私の属する一門の仲間が師匠の誕生日を祝う会かなにかで集まったことがありました。夜になると、同じ釜の飯を食った気心の知れたもの同士で、よもやま話に花が咲きました。その時に、上野の寛永寺からきたY氏が、「この間、有名芸能人の○○さんの葬儀に呼ばれたけれど、一人あたり○○万円もらったよ」と興味深いことを言いました。すると、千葉の田舎にある寺の跡取りのTさんが、「ええっ、そんなにもらえんの?」と驚いて叫びました。そして、「俺なんかゲンチャリ飛ばして1時間もかけて出かけて行ってこれしかもらえなかったよ」と指で1か2の数字を示し、げんなりした顔でため息をつきました。

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このように、同じお寺でも格差はありますし、当然ながら檀家さんの生活レベルによって額も変わってきます。しかし、持てる人はたくさん、持てない人は気持ちだけというのが基本です。つまり相対的な(あるいは身分相応な)金額がお布施の額となります。

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確かにあいまいかもしれませんが、何でもかんでもこれはいくらといえるほど世の中は単純ではありません。一口にお布施といっても、日頃どの程度お世話になっているのか、法要のために僧侶に足を運んでもらうのか、こちらから寺に行くのかなどによっても額は変わってくるでしょう。そうした時に大切なのは、相手の立場になって考えるということです。

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なんでも透明性をというのは、日頃の人間関係にはあまりなじみません。江戸時代に使われていた時間、子の刻とか言うやつですが、これは西洋の時間のように絶対的なものではなく、季節によって変わるもので、日が暮れたら何時、日が昇るのは何時という具合に人間の体感を中心にしたものでした。日本の音楽、雅楽もその日の天気や湿度などにより、基準の音を微妙に変えたそうです。西洋ではA(ラの音)といえば440Hzという絶対的なものに対して、日本では人間の感じ方に合わせた相対的なものだったのでしょう。

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大体、人に何かをしてもらった時、それがどの程度の価値なのかを感じる能力(感性)をなくしてはいけません。だれかに家の修理を頼んでそれが1日仕事だったとして、お礼に1,000円を渡せばよいと思う人はまずいないでしょう。大工さんの日当は2万から3万が相場です、そこに車両を持ち込んだり材料を使ったりしたら、その分も経費としてかかります。

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医師の資格を有する人や弁護士に何か頼んだらどうでしょう。彼らが月収100万円くらいと推察するのは常識の範囲だと思います。100万円というと一般のサラリーマンからすると高額ですが、彼らはそのために多額の投資をしてきています。月収100万ならば、日当は5万円、時給は7千円程度と推測できます。医師や弁護士に1時間相談したら、1万円というのは妥当な金額なのではないでしょうか。

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お寺の場合は、営利企業とは性格が違います。自分の親が世話になった分をその子がお返しするとか、非常に長い時間軸で付き合いをとらえますし、昔は寺が地域の共同体としての機能を持っていたので、寺に支払うお金が回りまわって結局自分自身が受益者として受け取ることもあるわけです。

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寺には維持費が結構かかります。本堂の修理や風水害に対する備えなど、一般の家屋とはけた違いに経費がかかるはずです。そうした事を考えると、お坊さんに葬儀に来てもらったら、日当相当の金額にかけることの人数分は払うのが筋でしょう。また、葬儀の場に来て読経をする以外にも、参列者に法話をすることもありますが、何をどのように話すかを推敲したりするのにもコストがかかっています。決してその場の思いつきで雑談をしているわけではないのです。寺にあっては卒塔婆に筆で文字を書き入れたり、事務処理なども必要になってきます。

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そう考えると、葬儀などでお坊さんを長時間拘束する場合は一人につき10万円、通夜も通してなら20万円というのは、決して高くはないでしょう。しかし、それ以前に自分たちがたまたま不幸な境遇にあり、十分な対価を払えないとしても、医者や弁護士のようにそのことで診療や相談を受け付けないということはないでしょう。そこがお寺のありがたさです。「いつかその時期が来たら、その気持ちがあればお返ししてくれればよいですよ」というのがお寺です。お布施の体系化は、そのような相手の立場と自分の立場を踏まえてものを考える習慣を奪うような気がします。

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私が毎年お手伝いしているサイパンの慰霊法要には、中学生高校生を無料で現地に連れていき、1週間の滞在費から旅費までと、それまでに準備会として行う研修費用もすべてを主催者のお寺で負担します。基本的に無償でお連れするわけですが、お気持ちがあればということでお布施を受け付けておりますが、それに対して怒ってくる親がいるので困ったものです。

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「タダだというから子供を参加させたのに、お布施を頂戴しますとはどういうことだ」というのが言い分です。例えば、あなたのお子さんの同級生のご家族が、ディズニーランドへ行くからあなたのお子さんも一緒に連れて行ってあげましょうと言われたら、あなたは「こりゃタダで1日子供を面倒見てもらってラッキー」などと考えるでしょうか。当然ながら、往復の交通費、ディズニーランドのパスポートチケットの費用、小うるさい自分の子供の面倒を見てもらう相応のお礼分など、1万円から2万円相当のお返しはするのが常識でしょう。

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相手のしてくれたことに対して、どの程度のお礼をするかに頭を悩ませるのは、人間として社会生活をするうえで必要なことなのではないでしょうか。

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テキサスの思い出 2/2

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「テキサスの思い出」のつづきです
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平日は、N氏も仕事があるので彼の邪魔にならないよう1泊ホテルを取ってニューオリンズに足をのばすことにしました。今度はサンアントニオとま逆の東側に向かって500Kmほどの距離があるので飛行機で移動しました。サウスウェストという国内線で、機体は日本人の感性からすると受け入れにくい、まっ茶色で塗られており、乗員も半分ほどが男性(若い兄ちゃん)で、男女とも同じポロシャツがユニフォームという何とも田舎くさい感じの飛行機会社でしたが、その分価格も安いのでした。
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滞在先はメリディアンホテル(現在はマリオット)、フレンチクォーターという中心地までほど近い場所にあり、徒歩で観光ができました。沼地の川をボートで回るBayouツアーではワニが見られて、一緒に行った男の子は大喜びでした。昼は水族館を見てFelixレストランでザリガニ料理を食べ、ミシシッピ川のボードウォークを散歩。夜は女性とそのお子さんをホテルに残し、男だけでバーボンストリートを徘徊。ここはストリップが観光スポットとして有名で、小泉八雲の生まれた家もこの通り沿いにあるのですが、ストリップ屋になってしまっていました。ストリップといっても観光客の白人老夫婦が平気で来ているくらいソフトなもので、ちょっとしたダンスパフォーマンスという感じ。
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私たちが入った店も観光客だらけでしたが、当時は日本もバブルで元気だったので、我々を日本人とみると踊り子の女性が寄ってきて「テーブルダンス」はいかが?と誘ってきます。自分の座っているテーブルの上で踊ってくれるらしく、これをやってもらうとチップをはずまなければなりません。そのようなものを頼むと、店中の注目を浴び、「あの日本人スケベね」とか、「やっぱり日本人は金持っとるのう」などと思われたくなかったのでやんわり断りました。
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この店でちょっと気づいたことがありました。テーブルに着くと女性がオーダーを取りに来てビールなど運んでくれるのですが、料金はその場で支払います。最初はビールを持ってきてくれるとそのまま黙って飲んでおりましたが、ふと隣の白人観光客を見るとちょっと興味深い所作をします。相手がビールを運んできたときにチップを渡すのですが、それが何とも自然でかっこいい。たとえばバドワイザーが$2だとしたとき、相手はお盆からビールをテーブルの上に置きます。すると男性はそのお盆に$5札を載せます。相手は$3をそのお盆に載せてお釣りで返してきます。それを一旦受け取って、3枚のドル紙幣を数えながら、そのうち1枚を盆の上に返すのです。つまりそれがチップの支払い方でした。
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それを見て、チップを渡し忘れていたことに気づき、次からは私も同じことをまねしてやってみました。相手は小さくサンキューといって会釈しましたが、そういえばさっきまでは何となく不貞腐れたような妙な顔つきをして去っていったのは、チップを渡さなかったからかと合点がいきました。こういうちょっとした所作を憶えるとこういう遊びも楽しくなります。同行の仲間が私の動作を見て感心しながら「なんでそんな払い方を知っているの?」と聞くから、今そこで見たのを真似しただけです。と答えました。普段の生活の中に学びのチャンスがありますね。
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そのあと、ライブ演奏をやっているパブで一杯やり、さらにプリザベーションホールという有名なジャズライブのお店に行き生演奏を楽しみました。最初に店は大きなホールでしたが、プリザベーションホールはごく小さい店で入れるかどうか心配でしたが、このような有名な店でもほとんどの人は外でただ聞きしていて、お金を払って入店する人は少ないらしく、さほど待たずに入れました。なぜか日本人らしき東洋人女性が受付をやっていたのが不思議でした。
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翌日は、町を一人で歩きたかったので私は単独行動。少々危険とは言われていたけれど、一人でルイ・アームストロング公園へ行ってみました。なんてことはない公園でしたが、妙に人気がなくてちょっと不気味でした。
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まあアメリカへ行って驚いたのは、スーパーへ行ったときに何でもでかいということです。牛乳でも肉でもサイズが日本の2,3倍はありながら値段は日本より安いので、大食いの私はとてもうらやましかった。ヒューストンのスーパーではオマールエビのでかいのを2匹買ってきてN氏のアパートで茹でました。イセエビのような味覚を期待したのですが、食べてみると大味でがっかり。でかい図体でガソリンばかり食って馬力のない当時のアメ車のようなものでした。
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夕食が後わり後片付けもひと段落したのに、大半を食べ残され、「このままでは死んでも死にきれません」とテーブルの上で恨めしそうにしているエビを見ていて哀れになり、何とか成仏させてやろうとその身をむしってほぐし、酢としょうゆで味付けをしてみたらこれが大当たり、最高の酒のつまみになりました。要は調理法が悪かったのですね。
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N氏のアパートにはいかにもアメリカらしく共同のスパがあったので、夜中に皆で入りに行きました。先客が一人いましたが、我々が行くと「湯加減はいいよ」などと一言発して帰って行きました。見知らぬ東洋人が集団でやってくると、やはり不気味なのでしょう。「ハーイ、君たちはどこから来たんだい?」みたいなフランクさはありませんでした。Fiesta Texasのウォーターライドに乗る時も、私たちの他にももう2名くらい乗れたので、後続のカップルに従業員が同乗を促すと、彼らは顔をこわばらせて拒否しました。何となく人種差別される側の気持ちがわかるとともに、いろいろな人種の人がたくましく生きている国だなと思いました。
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帰国の際、AAの国際線で幼稚園児の男の子がニューオリンズで買ったワニの水鉄砲を係員に没収されました。銃の形状をしているので持ち込みはならんということですが、見ると笑っちゃうようなワニの水鉄砲を本気で武器と思う人がいるのかどうか、9.11のテロのずっと以前でしたが、飛行機のセキュリティは昔からうるさかったですね。
【おまけ】
昼に立ち寄ったバーボンストリートのパブで、カウンターに行きビールを注文した。カウンターの中には太った黒人のオバちゃんがいて、「ビア・プリーズ」は簡単に通じたが、「ジョッキの生」をどういうのか分からず往生した。「ジョッキ、ジョッキー」と行ってもオバちゃんは怪訝な顔で睨んでいるだけ。しょうがないので、隣の席で飲んでいる客のジョッキを指差して「This one!」でようやく通じた。
しかし、テキサスは外国人観光客やヒスパニック、東洋人、黒人などの非WASPが多く集まっているので、英語が通じなくてもそれほどおかしなことではないし、相手も辛抱強く聞いてくれる。日本人だと英語で話しかけられたら逃げだす人が多いだろうが、言語に寛容性の高いのが多国籍の国のよい面である。

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テキサスの思い出 1/2

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いささか古い話ですが、テキサスへ行った時の話です。
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当時のNASDA、宇宙開発事業団(現在はJAXA)に勤めていた知人N氏が、日本人最初のスペースシャトル乗員である、毛利宇宙飛行士のプロジェクトに携わっており、テキサス州ヒューストンにあるジョンソン宇宙センターへ長期出張となりました。
良い機会だから一度遊びにおいでと誘われて、彼の知人である私たち何名かでお邪魔しました。
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滞在先は彼のアパートで、ジョンソン宇宙センターからほど近い場所、N氏は独身だったので我々も遠慮なしです。私はそれまでにハワイへは行ったことがありましたが、アメリカ本土を訪れるのは初めてでした。5人ほどで彼のアパートに1週間ほど厄介になったと思います。独身男性は私ともう一人、あとは子連れの夫婦で、お子さんは幼稚園児の男の子でした。
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ジョンソン宇宙センターは、私にとってあこがれの場所でした。小学2年の時、夜中に眠い目をこすってテレビにかじりつき、アポロが月に到着した時の不鮮明でとぎれとぎれの白黒の中継を今でもしっかりと憶えています。その時に何度となくかわされた交信が、「こちらヒューストン・・・」というきまり文句。宇宙とかロケットというキーワードに強烈な誘惑を感じた少年時代に、いつかあの場所で本物のサターンロケットを見てみたいと強い願望を持っておりました。
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N氏に車で連れて行ってもらったジョンソン宇宙センターは、広大で緑豊かな敷地にあり、まるで大学のキャンパスのような印象を受けました。一般の人も気軽に遊びに来ており、セキュリティで守られた建物以外は思いのほか自由に出入りを許していました。食事をしたカフェテリアでは、ここに宇宙飛行士が食事をしに来ることもあると現地職員が教えてくれました。
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ミッション中だったので一般の人は立ち入り禁止となっていた管制室に入れてもらうと、そこではロシアのミールとシャトルが交信を試みているところでした。通信回線はアマチュア無線の帯域を使っているということで、NASAは何でもハイテクだと期待していた素人な私にはなんだか拍子抜けしました。
管制室の壁面に映し出されているシャトルとミールの軌道が近付くあたりで交信をしようとしている様子でしたが、双方が近付いても結局無線は届かず失敗に終わったようでした。そのとき、現地職員が「Nice try」と言っていたのが印象的でした。日本人なら「残念だったね」と言うところ、ポジティブなアメリカ人のこの表現は、悪くないなと思います。
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そして、ついにサターンロケットを目にしました。広大な敷地に横たえられたその姿を見て、なんだかただの土管が置いてあるようでさほどの感動はありませんでした。子供のころに夢に見て、プラモデルも作ったし小学館の学習雑誌の付録のペーパーモデルでも慣れ親しんだサターン5型は、使い終わった産業廃棄物としての姿をさらしているだけでした。やはり、燃料を満載して発射台で屹立していてこそ、そのオーラを最大限に発信するのでしょう。
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センター内にあるお土産物屋でアイスクリームをフリーズドライにした「宇宙食」とロケットや船外活動の様子を撮影した写真のブロマイドを買いましたが、大人になってしまった自分には俗物的に感じられて残念でした。これを子供の頃の自分にプレゼントしたらどんなにか喜んだろうに、と思いました。
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週末でN氏が休日となるときに、N氏とその同僚の車2台に分乗してヒューストンから西へ200マイルほど走ってサンアントニオへ行きました。そこにはアメリカ人にとって重要な史跡である「アラモの砦」があり、西部劇好きな私にとってもまた行くことを大いに楽しみにしていた場所でした。
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高速道路をひたすら一直線に走り、改めてアメリカの高速はタダなんだなと感動しました。好きに入って好きに出て、お金は1円も取られない、今は日本でも無料化実験が行われてなじみ深くなりましたが、当時の日本人の感覚からは驚きでした。ただ、その分、道は日本の高速道路と違ってあまり整備されていないようでした。
車は左ハンドルだったので、普段日本で左ハンドルのMG-Bを乗っている私がドライバーを務めました。日本と違ってあまりにまっすぐで空いていた高速はとても快適で、ついついスピードが上がり過ぎてN氏に何度かたしなめられたほどでした。
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アラモは教会の跡地であるという話は聞いていましたが、行ってみるととても厳粛な雰囲気で、年配の米国人男性が、帽子をかぶったまま入ろうとした若いアメリカ人に脱帽するよう注意する光景を目にしました。アメリカという国の成り立ちにおいて、ここは彼らにとってそれだけ重要な心のよりどころとなっているのがわかります。
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サンアントニオ市街で、わざとなまりのきつい英語を話すガイドが船頭役を務める遊覧船に乗ったあと、午後はFiesta Texasという遊園地へ行きました。ここで気づいたのですが、遊園地で遊ぶ客の中にほとんど黒人がいませんでした。ここはアメリカ南部で、多くの黒人が住んでいますが、こうした場所には彼らは来ないのでしょうか。人種差別というよりは、白人、黒人相互にTPOですみ分けているような気がしました。遊園地を出て帰途につくころにはすでにとっぷりと日が暮れていました。

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