イメージ画像

掃除 2/2

【2010年1月25日の朝礼でのスピーチより】

□□□□
さて、私は今だに掃除嫌いですが、しかし身の回りを整理するのは好きです。というより、好き嫌いではなく必要だからやる、つまり習慣になっております。カ
ミさんからは、あなたは几帳面だとか真面目だとか言われますが、私にとって掃除や整理とは、必要な時にそれがすぐに見つかるように準備しておくことにほか
なりません。

□□□■
だから、いらないものを捨てることも大切です。なぜなら、いらないものを捨てると検索スピードが上がるからです。パソコンのハードディスクにも不要なファ
イルがたくさん放置されていると見た目にもどこに何があるか分からなくなりますし、システム的にも検索が遅くなりバックアップにも時間がかかるようになり
ます。いつも身軽にしておくことが軽快に仕事をする(軽快に生きる)コツだと思います。

□□■□
先の話に出てきた寺、律院の小僧部屋には誰が買ってきたのかジョージ秋山の「浮浪雲(はぐれぐも)」という漫画が置いてあり、私たち小僧は寝る前のつかの
間の暇を見つけては読んだものです。その中に、坂本竜馬が出てきてこう言います。「家具は家を縛り、家は人を縛る」と。30年以上も前に読んだ本ですが、
いまだによく覚えている言葉です。実際に家も持たず物も持たずに生きていくのは無理ですが、あまりモノを持ちすぎると余計な負担や束縛を背負いこみ、いざ
という時に軽快に動くことができなくなるという、とても考えさせる言葉です。

□□■■
掃除とは、身の回りや物を清潔に保つのみではなく、それにより自分の心も常に風通し良くしておくという行為なのかもしれません。山林も手入れしなければい
くら木が茂っていても貧弱な木が増えるばかりです。きちんと手入れして適当に間引き、枝打ちをして、日当たりや風通しが良くなって初めて立派な木が育ちま
す。

□■□□
ベテランの刑事は、車を見てその持ち主が覚せい剤常習者であることを見抜くそうです。覚せい剤にやられて心が病むと、車の中を整理しようとか、洗車しよう
とか、傷ついた車を修理しようとする意欲がなくなってしまうのです。だから、車の中がごみ屋敷のように汚れているのは、そうした兆候を現すそうです。

□■□■
街に落書きが増えると治安が悪くなり、それを放置すまいと立ち上がった住民たちによりそれらの落書きが消されていくと治安が良くなるという話があります。
街が落書きで汚れていると、人の心に荒れた性情を呼び起こすのかもしれません。騒音も同じことです。いつもけたたましい騒音に包まれていると落書き同様人
の心を荒れさせます。だから年中テレビをつけっぱなしにしておくのは、特に子供にとってはとてもよくないことだと思っています。

□■■□
仏教の修行者が座禅を組んで瞑想したり毎日お経を読んだり掃除するのは、自分の心の中の雑草を除去するために必要なことなのかもしれません。お釈迦さまで
さえ、悟りを開いた後も四六時中瞑想していたそうです。一度悟ったからといって、その後なにもせずにいては、悟りの状態を保てないのではないでしょうか。

□■■■
人間は忘れる生き物です。忘れるというのは悪いことではありません。嫌なことがあってそれを毎日毎日思い出しては怒ったり悔んだり悲しんだりしているので
は体がもちません。ある程度忘れるからこそ生きていけるのです。今日嫌なことがあっても、夜には忘れて熟睡し、明日にはすっかり新たな気分で積極的に生き
ていくことができればそれに越したことはありません。

■□□□
しかし、大事なことも忘れてしまうのが悩ましいところです。感動を与える本を読んだり、偉い人の話を聞いて、なるほど、これからはこれを自分の生きる指標としようなどと思っても、数か月もすればその感動も薄れ、元に戻ってしまうのです。

■□□■
トルストイの「青年時代」の中で、落第して絶望の淵に沈んだ主人公が、かつて自分が道徳的に生きるために人生の目標と信条とを書き留めた「生活の信条」と
いうノートによって救われるという場面があります。過去の自分によって現在の自分が救われるのです。一度はある極みに達していながら、時の経過とともに
すっかりその高邁な気持ちを忘れ凡庸な日々を無為に過ごしてしまうという話です。

■□■□
人間は忘れる生き物です。自然は放っておくと無秩序な状態に戻ろうとします。そのために、日々の掃除や習慣が大切になってきます。だからお坊さんは毎朝お
経をあげるし、他の宗教でもミサや御祈りが厳格に執り行われているのです。身の回りやパソコンのファイルを常日頃から掃除したり整理したりするのと同じよ
うに、自分の心も定期的に掃除してやることが大切です。

タグ

掃除 1/2

【2010年1月18日の朝礼でのスピーチより】

□□□□
私がいたお寺では1ヶ月か2ヶ月に1回、お堂で使用されている仏器(仏具)をきれいに磨きます。大黒様やお不動様といったお祭りの前日にはいつも行いまし
た。これを我々は「仏器磨き」と呼んでいました。磨かれる仏器の多くは真鍮製で、1ヶ月もすると連日の護摩供養により火と油でドロドロに汚れてしまってい
ます。仏器は数か所のお堂から下げてくるので、結構な数になります。餅箱に乗せられて運ばれてくる多量の汚れた仏器を見て、「ああまた仏器磨きか」とうん
ざりしたものです。

□□□■
仏器磨きはたいがい夕食後に小僧たちが総がかりで行います。汚れで赤茶けた仏器を金属用の洗剤(当時はピカールを使っていました)をつけた布で磨きます。
その後、小さく切った新聞紙で磨き上げると真鍮本来の白っぽい黄金色を取り戻し、驚くほどきれいになります。その代わりに自分たちの手は真っ黒に汚れま
す。2時間ほどで作業が終わり、ピカピカに磨かれた仏器が餅箱の上に並べられていくのを見ていると、最初は億劫だったはずなのに自然と気持ちもすっきり
し、仏器を磨いていたはずなのになんだか自分の気持ちがきれいに磨かれたような感じさえします。

□□■□
ただし、独鈷、三鈷杵、五鈷杵、金剛鈴(れい)といった密教特有の仏器は、特殊な修業(加行=けぎょう)をして認められた僧しか触れることができず、掃除
の際に磨くこともしません。当時、私はこれらの仏器を見て、なにやらその美しい造形美にとても魅かれたものでした。我々下っ端の小僧には触れることも許さ
れていないので、なおさら怪しい魅力を放って見えたものでした。

□□■■
寺の生活では掃除というものがとても多くの比重を占めています。お堂の掃除、庫裏の各部屋の掃除、便所の掃除、参道の掃除、春夏になると参道、庭の草ひき
(草むしり)、回峰行コースの枝払いや道直しなど、仕事の半分以上はこうした「掃除」にあてられます。しかし、私はこの掃除がとても嫌いでした。なぜな
ら、せっかく掃除しても次の日にはすぐに汚れてしまい、結局あくる日もまた同じように掃除しなければならないからです。なんだか、一度掘った穴を再度埋め
直してまた掘り返しているような虚しい感じです。

□■□□
寺での3年間の生活もそろそろ終わろうかというころ、小僧頭の哲叡さんにこう言われました。「お前もそろそろお暇する時が近い、これまでお世話になったお
返しとして、この寺を隅から隅まできれいに掃除して、親父(師匠のこと)をびっくりさせるくらいきれいにしてみたらどうだ?」

□■□■
当時、私は比叡山麓の律院という2,000坪ほどのお寺に留守番として常駐していました。特別なお祭りなどがある時を除いてあまり人は来ないので、普段は
栢木寛照師と私の二人しかおりませんでした。また、その栢木師は新しい組織(三宝莚)の立ち上げなどで忙しく留守がちだったので、その広い寺にただ一人で
いるということがしょっちゅうでした。そういえばメスのシェパードを飼っていたので、一人と一匹が普段の留守番役でした。

□■■□
先輩である小僧頭に言われたことは絶対の命令ですから、きっちりと掃除をしなければなりませんが、先に述べた如くどうも私は掃除というものに意義を感じま
せんでした。きれいに掃除したところでどうせ一週間もすれば元に戻ってしまうのに、それを世話になった礼として残す仕事としてはどうにも面白くない。そう
考えたのです。

□■■■
少し思案して、私なりの考えが浮かびました。それは、この寺の古びた台所を徹底的にリフォームしてやろうということだったのです。それまで、その台所は古
びていて私から見てあまり清潔とは感じられませんでした。それになにやら暗くてどうにも陰鬱な雰囲気の漂う空間だったのです。それを清潔で明るい台所にリ
フォームすれば、少なくとも半年、1年くらいは多くの人にきれいになったなと感じてもらえるだろうし、自分が去っていくに当たっての置き土産としてはそれ
に勝るものはないと思ったのです。

■□□□
そこで、早速自腹を切って様々な材料や道具を買い集めました。古臭くて暗い印象を醸し出す白熱電球を蛍光灯に変えました。木の棚を緑やブルーなど清潔感を
感じさせる色のペンキで塗りました。棚を外して表で塗装していると、栢木師が「なにしてるんや」といぶかしげに聞いてこられましたが、意に介せず作業を続
けました。本来なら、そうした改造をするのに師匠や栢木師に相談しなければならなかったはずですが、きれいにして驚かしてやろうという意図もあったので、
勝手に作業を始めてしまいました。

■□□■
鍋や釜を置いてある棚は土壁なのでボロボロと砂が落ちていつも汚れていました。そこで白いタイル調のブリキ板を買ってきてそこに張り付けました。調味料を
置いておく小さな収納棚を手の届く高さに作りました。リフォームにあたり、いやな掃除もやりました。これまで何年も人の手の入らなかったような調理台の裏
や、覗くのも恐ろしいような光の届かない物入れの中もきれいにしました。

■□■□
そうこうして、すっかり明るい雰囲気に生まれ変わった台所を見て、一人満足していたものです。しかし、この仕事をほめてくれる人はいませんでした。周りか
らは、素人が勝手に伝統ある寺の台所をいじくり、棚や壁を台無しにしたと思われたのかもしれません。考えてみると、勝手に寺の壁や棚にペンキを塗るという
のはまずかったのかもしれません。それでも、周りに人たちは、秀照がめずらしく一生懸命仕事しているのだからと、やめさせるわけにもいかずにハラハラしな
がら見ていたのかもしれません。

■□■■
ただ、それでも唯一いつも寺のお祭りのときに台所仕事を手伝ってくれる近所のご婦人連の一人が、「きれいにしてくれておおきにな、使いやすうなったで」と感謝の言葉をくれたのが救いです。

タグ

休み

成人の日のため、マンデースピーチはお休みです。

タグ

子供の習得力

【2010年1月4日の朝礼でのスピーチより】

□□□□
正月1日から3日まで福島の温泉スキー宿に家族で宿泊しました。旅館の前にはリフトが1台しかない小ぢんまりした宿のプライベートスキー場があります。ガンガン滑る人なら物足りないでしょうが、うちの二人の子はスキー初体験なのでちょうどよいゲレンデです。まして、両親ともこの20年くらい滑っていないのでなおさらでした。

□□□■
7歳の長女と5歳の二女は全く性格が違うので、観察しているととても面白いものです。初日は二人とも雪を見て大はしゃぎし、雪遊びをして明日のスキーをとても楽しみにしていました。しかし長女は寝不足がたたったのか、翌朝、旅館で借りたスキー靴を履いて目の前、ほんの20mほど先にあるゲレンデまで歩いたら、途端におう吐してダウン、雪の上でしばらくうずくまったまま動きませんでした。その間、二女は元気一杯で早速スキーを履いてズルズル滑りながらもなんとかスロープを上ろうとしています。私が斜面に対して板を横にするようにと注意すると「わかってる、やってるの」と口答えして全く人の言う事を聞きません。

□□■□
長女はなんとか持ち直してスキーをはいたものの、ちょっと思っていたのと勝手が違っていたようで、うまく滑れない(当たり前ですが)ので怒り出して自分で板をはずして、手袋まで投げ捨てて宿に戻って行きました。

□□■■
二女はいつものことですが、私たち親が何を言おうと聞く耳を持たないタイプです。まずは何でも自分でやってみないと気が済みません。しかし、いくら自己流で斜面を登ろうとしても、スキーをまっすぐに向けていては登れるはずがありません。そしていつものように号泣してわめきながらも長女と違ってやめようとはしません。

□■□□
これは二人とも午前中で終了かな? せっかく1日レンタルだったのにもったいないことをした。しかし、そんな事だろうとリフト券は買わずにいたので賢明だったな、などと思いつつも、少し放っておけば落ち着くだろうと、様子を見ていました。

□■□■
すると、長女はしばらくして気がつくといつの間にかまたゲレンデでスキーを履いもぞもぞやっています。二女はというと、なんとか両親のやり方を見よう見まねで斜面を登り、何度か滑り降りるという経験を積み始めました。

□■■□
二人の性格ですが、長女はうまくできないことに対してすごく悔しがりますし、人目を気にして恰好悪くて恥ずかしいと感じるようです。だから、ちょっとやってみてうまくいかないとすぐに投げ出します。うまくできない無様な自分を見せたくないのでしょう。しかしその反面、何かができずにいるというのが悔しくて仕方ありません。なので、投げ出した後も少しほとぼりがさめるとまた再チャレンジするのです。

□■■■
二女は、とにかく体当たりしていくタイプで、人の言うことや理屈よりも自分のやりたいようにやり、それで駄目だとすぐに助けを求めたり泣きわめいたりして感情を爆発させます。しかし、しばらくするとケロッとして先ほどの大騒ぎは何だったのかと周囲を呆れさせます。

■□□□
午前中では、二女のほうがスキーに馴染んだようです。リフトに乗るのを嫌がっていたのですが、昼前になると自分から乗りたいと言いだします。それじゃお昼を食べたらリフトに乗ろうね、と諭しても、今度は今すぐ乗りたいと言って聞きません。この辺が二女の強烈なキャラクターです。それじゃ昼前に1本リフトに乗って山頂へ。このスキー場の客はほんの数人なので、リフトは乗る時も降りる時もわざわざ停止させてくれるので助かります。私が前に抱えてボーゲンで滑り降りると、彼女はあまり恐怖心がないので大喜びです。これで何とかスキーの楽しさを知ってくれたようなので、初体験としては上々です。

■□□■
それを見ていた長女は悔しくてなりません。午後になると今度は長女にせがまれ、彼女を連れてリフトで上がります。私も久しぶりだったスキーにいくらか慣れてきたので、リフトを止めずに乗り降りできるかと思ってチャレンジしましたが、降りるときに見事に親子でコケました。例によって前に抱えて滑り降りると、長女も喜んではいますが少しスピードが上がると怖がりますので、この辺が二女との違いです。

■□■□
自分でも意外だったのですが、ああだこうだ説明するよりも、前に抱えてボーゲンで降りると、はじめて滑る子供でもなんとなくコツがつかめるようです。特に長女のほうには体重移動により左右に曲がれるということを説明しながら滑ったら、自分なりにそれを反芻して、最後にはそれらしく曲がれるようになりました。

■□■■
1日滑ってみると、長女も二女もそれなりにボーゲンで滑り降りることができるようになりました。午前中は妹に先行されていたお姉ちゃんでしたが、1日を終わってみるとやはりそこは理論派の長女のほうが若干習得は早かったようです。しかし、怖いもの知らずで体当たりしていく二女の性格からすると、いずれは妹のほうがダイナミックな滑りをするようになるかもしれません。

■■□□
いずれにしろ、二度とスキーはやりたくないと言い出すかと心配していましたが、結果的にはもう一泊して滑りたい、またここにスキーをしに来たいと異口同音に言っていたので、子供たちのスキー初体験は大成功でした。

■■□■
子供の物事に対する取り組み方を見ているととても面白いです。へこたれたりいじけたりしていても、すぐに手を差し伸べたり、あれこれ干渉したりするよりも、一度放っておいて時間をおくというのがうちの子供たちに対しては効果的なようです。

■■■□
蛇足ながら、この少し時間をおくというのは、天ぷらのかき揚げを揚げる時の間の取り方に似ています。具を油の中に入れるとパッと散ってしまいますが、あわてて箸でまとめようとすると具が箸にくっついて思うようにまとまりません。しかし、少し間をおいてから箸でチョンとくっつけるとうまくまとまるのです。料理をする人にはわかってもらえるでしょうか。

タグ

このページの先頭へ