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食い物にされる人たち

先日、大学院にソフトバンクインベストメント(SBI)の北尾社長が来て講義をしてくれた。昨年も同氏の講義を聞いたが、そのときは人数も20名あまりと少人数だったので結構本音の部分を話されたように思う。対して今回は聴講する人数が多くメディアホールという大きな会場で行われたせいか、SB Iの企業戦略というようなオフィシャルな話であった。

しかし、北尾氏が昨年も今年も話題にしたのは日本のマスコミのひどさである。氏は細木何某という女占い師を引き合いに出して、このようないかがわしい人間をお茶の間に何度も登場させるテレビ局の姿勢を批判されていたが、私もこの手の胡散臭い人間は大嫌いで、たまたまテレビに映っていてもすぐにチャンネルを変えてしまう。しかし、テレビは視聴率さえ稼げればどんなに怪しい人間でも話題でも平気で電波に乗せ続ける。オウム真理教だって事件が発覚するまではマスコミが格好のネタにしていたのは記憶に新しい。先日の講義に出席したわれわれ学生の中には民放連の役員もいたので、北尾氏はそれを知ってか知らずか、テレビ批判を展開したのであるが私も常々サラ金のコマーシャルを平気で流し続けるテレビ局のありかたを批判しているので、大いに同感であった。

話は変わるが、なぜパチンコ店はあんなにうるさいのだろうか。それは景気のいい音楽を大音量で流すことによって人間の思考力を減退させることが目的だからである。もしもパチンコ店が静寂な場所であったら、今日一日何をすべきかとか、忘れていた買い物を思い出すとか、家に待たせている家族のことを思い出すとかして、長居をせずに店を出て行ってしまうであろう。そういったことを防ぐために馬鹿でかい音を出し続けるのである。これは、卵を産むことしか考えさせないようにしたり、早く肉として売れるように餌をひたすら食べさせたりするように仕組んだ養鶏所のようなものである。

軍隊が派手なマーチで士気を鼓舞するというのも、余計なことを考えずに皆が同じように行動することを促すという意味で、同様のやりかたではないだろうか。狭い店に押し込まれてでかい音で思考力を奪われ、財布の中を吸い上げられていくのであるから、その中にいる人間はもはや人間扱はされず、ただの獲物に過ぎない。

これはテレビでも同じである。朝から晩までくだらないバラエティー番組などを見ていると、あっという間に時間が過ぎてしまうだろう。その間、うんざりするほどのコマーシャルをインプットされることになる。うちの4歳の娘がごろ寝をして呆けたようにテレビを凝視していることがあるが、見ていてぞっとするものがある。人間は、食事も情報も選んで摂るようにしなければならない。受身でいると、収奪者のいいように食い物にされてしまうのである。うちの娘も「うざい」とか「なんてこった」などのような言葉を発するので驚いていたが、女の子向けの人気アニメ「プリキュア」が原因だということが最近わかった。

悪い言葉などは学校とかでいずれ覚えるものではあるが、子供向け番組にこういった言葉を無秩序に垂れ流すのはどう考えても大人が悪い。よく言われることであるが、「援助交際」というのもふざけた言葉である。本来はネガティブなイメージを持つ「売春」という言葉を使わなければならないのに、それを「援助交際」などと面白おかしいニュアンスの言葉でごまかすことなど、マスコミがすべきではないと思う。民放連あたりがそういった歯止めをかけるなり軌道修正するなりできないものだろうか。

本来マスコミというのは正しい情報をありのままに一般大衆に伝え、一人ひとりが自分で判断を下せるように促すのが目的のはずだが、いつの間にか大衆に迎合して受身でいても楽しめるくだらない情報を無秩序に垂れ流す脱力機関となってしまったようだ。このような現象は、本来人を正しく導く手助けをする小中学校の教師が、子供に媚びて仲良くしてもらおうと思ったり、子供と一緒になってあるいは先導していじめに加わったりという構図と酷似している。

人を自分の利益のために食い物にすることは卑しむべきことではあるが、人から食い物にされてもそうと気づかずにへらへらしているのもまた恥ずべきことである。しつこいようだが、物事を判断する目を自分自身で養っていかないと、他人に食い物にされて無様な人生を送る羽目になるということはしっかりと憶えておいてほしいのである。

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大人の気遣い

私がフリーで仕事をしていたのは24歳からのわずか1年間である。その後、フリー契約の管理をしてもらっていたE社に入社することになる。E社のS社長はそのころ40前後とまだ若かったが、価値観が合うし尊敬できる人物だったので社員30人ほどのこの会社に世話になることにした。

社長の人物からして、その会社もきっとよい雰囲気を持っているのだろうと想像して出社1日目を迎えたが、実態は必ずしもそうではなかった。社員の中にはいい年をしていながら妙に幼稚な人間や、ちょっと美人の女子社員がいて、それをちやほやと取り巻く情けない独身社員連中がいたり、一番仕事のできそうな人間も派遣社員だったりしてかなり期待はずれだった。

その日の昼休みの時間を迎えたとき、初出社日だった私に「お昼一緒にどうですか?」などと声をかける社員は一人もいなかった。S社長がいればそういった気遣いをしてくれたであろうが、社長はその日は留守であった。私は誰かと馴れ合いたいとかいう気持ちもないし、寺での生活に比べれば会社での仕事などままごとのようだったから、別段寂しいとか思うことはなかったが、客観的に見て情けないと感じた。それでも、こちらから「この辺だとお昼はどこで食べるんですか?ご一緒してもよろしいですか?」と声をかけて、とりあえず馴染むことにはしておいた。私はS社長が好きだったので、私を誘ってくれた彼の面子を立てるためにも、「社長は変なやつを連れてきた」と思わせたくなかったので、社交的に振舞った。だが彼らも決して排他的なわけではなく、そのように声をかければ快く受け入れてくれるし、色々と会話もしてはくれるのであった。

ただ、しばらく観察しているとこの会社は特定の社員同士が妙に仲良しだった。バイクの同好会のようなものがあり、プライベートでもツーリングなどの活動をしていたが、それは自然発生的にできたいわゆる「仲良しクラブ」に過ぎなかった。仲のよいのはこういった仲良しクラブのメンバー同士に限ったことであり、見ていて気持ち悪いくらいベタベタに馴れ合っていた。そのグループに属している人間の中にも、なんとかそのグループの中からはみ出さないようにへーこらしているような者もいて、気の毒に感じるほどだった。

その後少し経ってからS社長と飲みに行く機会があったので、新入社員がいるのに昼に一人も声をかけてこないということについてがっかりしたということを話した。社長は少々気まずそうな顔をしていたが、何から何まで社長のせいというわけではないのだから、今思うとこんなことを伝えたのは気の毒なことだったと後悔している。社長からは「君が中心人物になってくれ」というような事を言われたように記憶している。

そうは言いながら、それから半年くらいの間に一緒にスキーに行く仲間もできたし、車好きの友人や、私が声をかけてスポーツクラブへ通うグループを作ったり、私のライブに常連としてきてくれる仲間もでき、結構楽しくやっていたのである。

ただ、その後に入ってきた新人社員に対しても相変わらず同じような扱いだったが、これは社員全体が人見知りするというか、自分のことだけで精一杯というだけで、別段悪気があるわけではないのであった。

そして今、自分が会社に対して責任を持つという逆の立場になって自分の会社がそのような大人の気遣いができているのかどうか、はっきり言ってよくわからない。今の立場からはそういったことが見えづらいのである。

最近見聞きした話である。生まれつき顔にひどい腫瘍のある少年がいた。小学校のときにそれをネタにいじめにあったので、両親がある私立小学校へ転校させた。その学校ではいじめは一切なく、後に彼に医学の道に入るきっかけを作ってくれるような親友もできたそうである。おそらく大学までそういったよい友達と交流を深めながら、ついに彼は医学博士になるのであった。そんな彼が大人になって参加した同窓会で、このような話をはじめて友人から聞かされるのである。それは、彼が転校してくる前に開かれた学級会でのこと、今度顔に腫瘍を持った子供が転校してくるが、そのことについてどう対応するかといった議題であった。そこでクラスで討議した結果、その転校生と例えひどい喧嘩になったとしても、顔のことだけは絶対に言うまいという紳士協定が結ばれたというのである。この話に私は非常に感動した。

今日の話は「大人の気遣い」というものであるが、これは必ずしも年齢を重ねて大人になったからできるということではなく、今の話のようにたとえ小学生であっても立派にそういった振る舞いができるのである。このクラスの雰囲気というものは自発的に生まれたものではないと思う。それにはこの学校の教育方針や親や先生たちの強い指導があってのことだと思うが、そういった環境さえ整っていれば、たとえ小学生でもかほどに大人の気遣いを発揮することができるのである。昨今いじめによる事件が頻発しているが、子供自体の性質は先の私立学校の子供たちとなんら変わらないはずである。環境や指導が悲劇を生むか感動を生むかの違いを生み出していると思う。

大人とは、自分のことは十分にできていて、その上で他人のことも気遣うゆとりのある人のことだと思う。年だけ30、40、あるいはそれを過ぎても、そういう意味で大人になれない人が結構大勢いるのではないだろうか。

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休み

(業務都合により休み)

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ひとこと詫びることの大切さ

システム開発は人間関係が基本

システム開発の仕事というものは、多くの人と関わりを持ちながら目標とするシステムを作り上げていくものですが、機械であるコンピュータを相手にするよりも人間を相手にしていることの方が多いのではないでしょうか。特に上流工程となるとその傾向は強くなります。

九州での現地作業

以前に九州で仕事をしていたときにこんなことがありました。
それはかなり切羽詰ったプロジェクトで、20名くらいが連日遅くまで現地での作業に忙殺されていました。チームとしては元請の社員の他に、我々のように東京から応援にやってきた外注会社、地元九州で集められたソフト開発の社員などが入り混じっていました。

この仕事には私は途中から助っ人として参加したのですが、現地に行ってみると少々年配の地元の外注社員のA氏が技術的な中心人物であることが分かりました。A氏は当初からこのプロジェクトに関わっており、地元ということもありエンドユーザの会社とも以前から付き合いがある様子でした。

なぜこんな仕様で?

ところが、このA氏の設計というのが中途半端なもので、そのやり方では最終的にエンドユーザの要求を満たせないということがチーム内では早くから知られていました。私に理解できないのは、そうと分かっていてもチーム全体がその設計にしたがって開発を進めていることでした。いずれ設計のやり直しをしなければならないということは元請け会社のリーダーも認識しているようでしたが、それをずっと後回しにしていたのです。

まずはに謝ってくれ

そんなある日、打合せの場でそのA氏がちょっとした機能についてある方針を示しました。それにより、私の受け持ちプログラムに修正が入ることになり、打合せが終わるとしばらく私はその作業を行っていました。すると、打合せの後も元請会社のリーダーとなにやら話を続けていたA氏が私のところにやってきて、「今なにやってますか?」と聞くものだから当然、「打合せで決めた仕様に沿って修正をかけています」と返事をしました。

するとA氏、こわばった顔で「そのやり方だとXXXがうまく機能しないからYYYのようにやってもらわないとダメですよ」と、まるで私が勘違いして仕事を進めているようないい方をしてきました。私にはA氏の方針変更の理由は理解できましたが、それよりも薮から捧ないい方にムカッときました。だから私は、「それは分かりますが、あなたが打合せで決めたからそのとおりにやっていたのですよ」とひとこと返した。ここで私が期待していたのは、「すみません、よく考えてみたらさっきのやり方ではまずいということになりました。お手数掛けて申し訳ありませんが、変更お願いできますか?」というような返事だった。

絶対に謝らない

しかし、A氏は私が話を理解できていないと思ったらしく、「あのですね、XXXのやり方だと○○○がうまく行かなくなってしまうんですよ」とその理由を説明しだした。A氏が同じ会社の人間だったら、はっきりと「そんなことは分かっているけれど、先にすみませんのひとことくらい言え!」と言ってやったでしょうが、相手は別会社でずっと年上の人間だし、周りにはたくさんのメンバーがやり取りを聞いているから、私も遠慮して露骨なことは言えずにいました。

この状況は大変イライラします。頭に血が上っておとなしく引き下がることができない私はなおも「それは分かっているけれど、あなたが指示したんでしょう?」と少し強くいうと、A氏はまたもくどくどと変更しなければならない理由を説明し始めました。まるで、理解の遅い新米技術者に「わからんやつだな」というような態度で物をいうA氏に、結局「すみませんの」ひとことを言わせることはできませんでした。

本当のリスクは人

私がプロジェクトに参加した最初のうちは、様子が分からずA氏をベテラン技術者としてみなしていましたが、状況が分かってくるにつれこのプロジェクトで一番の問題はこのA氏だということが分かってきました。そして、何故か一番このプロジェクトに対して責任の重いA氏が中途で抜けてしまうのです。そのことはチームのメンバーもかなり前から分かっていたようですが、仕方のないこととしてあきらめているようでした。私は理不尽な話だと思っていましたが、後になって思うと、皆がこのA氏に頼っていても仕方がないと感じていたようで、いなくなるならかえってその方がよいと考えていたフシがあります。

さて、そのプロジェクトからA氏が抜けた後は心機一転再スタートを切り、一番問題となっていた部分は私が設計をやり直して何とかリリースにこぎつけたのですが、どうも無駄な回り道をしたようです。

気持ちよく謝ってリプレイ

システム開発の仕事場とは、本来は一致協力して一つの目標を達成するはずなのですが、多くの人が入り乱れてプロジェクトに参画し、それぞれがそれぞれ違った目標を持っていたりするものですから、時にはぶつかり合うこともあり、ストレスを感じたり、自分は正しいと思ってやったことが相手には迷惑を掛けてしまうことになったりと様々です。このような人間同士の摩擦というのは仕事をしていく中で避けようもありませんが、自分が間違ったと思ったら気持ちよく「すみません」と一言いうだけでずいぶん雰囲気が違ってくるものです。

サッカーの試合でも、熱心にプレイするあまり相手にファウルをしてしまうことがありますが、そんなときに手を差し伸べるとか、握手をするだけで「お互い様」ということになり、また気持ちよくプレイができるのです。システム開発の現場もまったく同じことだと思います。

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