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たまにはキレることも

先週に引き続き、K先輩の話です。

あるとき、寺によく遊びに来る大学生とお堂の掃除をしているところにKがやってきました。

K:「なんで香呂に香を盛ってないのや?」
私:「やり方を知らないものですから」
K:「やり方知らんてお前、恥ずかしゅうないのんか」
私:「でも教わっていませんし」
K:「教わったかどうかは関係あらへん! 知らないということを恥ずかしいと思わへんのかっ」

と怒鳴ったKは私を思いっきりひっぱいたのでした。私は悔しくて涙が出ました。それを見ていた大学生は「ひどいなあー」とあきれ顔でした。

このときのKの心理はこうだと思います。第三者である大学生が見ている前で、「自分は後輩に対して厳しい指導をするえらい先輩なんだ」ということを印象付けるため、理由などは構わずとにかく後輩を殴るシーンを彼に見せたかったのでしょう。昔の軍隊でも、人間性の低い上等兵がやたらと部下を殴ったりしたそうですが、自分を権威付けたくてそのような行為に及ぶのでしょう。

高校2年のときだったと思いますが、私は比叡山の麓の律院という寺に留守番として1週間交代で寝泊りしていました。そこにはすでに常駐の留守番役としてKが派遣されていました。ですから、私にとっては律院に赴くこの1週間がひどく憂鬱でした。

あるとき、その律院に下っていた私にKが仕事をいいつけました。寺への寄進に対するお礼状の葉書の宛名書きです。これを、20枚だったか30枚だったかを毎晩寝る前に書くことを私にノルマとして課したのです。昼は肉体労働も多く疲れきっていましたから、眠い目をこすりながら書くのでどうしても字が雑になってしまいましたし、元々字が下手でしたからミミズの這った様なひどい字になっていたようです。

この寺には私の師匠のそのまた師匠の弟子(つまり叔父に当たる)である栢木寛照師という住職もおられ、その豪放磊落な性格で皆の尊敬を集めておりました。その栢木師が、礼状に書かれた私のきたない字を見て、「別に慌てんでええし、無理に何枚も書かんでええから、丁寧に書くようにせえよ」とおっしゃってくれました。

その日から、栢木師に言われたように丁寧に書くようにしましたが、葉書は1日に数枚しか書きませんでした。そして夜になってKが私の部屋に入ってきました。

K:「なんや、何で言われた枚数を書かへんねん。サボったらあかんやないかいっ」
私:「・・・」

もうこの頃はKに対して理屈を言っても始まらないと思って何も言いませんでした。この葉書の件以外でも散々嫌な目に合わされており、私は次に何かあったら黙ってぶん殴ってやろうと心に決めていたのでした。そして、その時が来ました。

どの程度の効き目があったのかわかりませんが、拳でKの頬めがけて連続パンチを繰り出しました。1、2発は命中したように思いますが、すぐに押さえつけられてしまい、逆に何倍も殴り返されました。私はめったに人を殴ったりしたことがないので、猫のパンチ程度しか効いていなかったと思いますし、やれば後から何倍もお返しが来るということも最初から分かっていましたが、別にそれでもよかったのです

その後、延々とわけの分からない説教と殴打を1時間以上受け続けましたが、私は黙ってされるままに大人しくしておりました。Kに殴られ続けながらも、私の心は満足感で一杯でした。1発でも2発でも、Kを殴ってやったという達成感で、とてもスッキリした気分となり、後はどうでもよかったのです。

その後も、Kは相変わらずでしたが、少しは私に対する態度も変わったのかもしれません。数日後、誰かから話しを聞いた栢木師が「お前、Kをどついたんやて?」と愉快そうに笑いながらおっしゃったので、ホッとしました。この世界で先輩に手を上げるということは大変なタブーですから、他の先輩たちからさらなる制裁を受けるかもしれないと恐れていた私を、栢木師のこの一言が安心させてくれました。栢木師もKが問題の多い人物であることは分かっていたでしょうから、この椿事を面白おかしく感じていたのに違いありません。

Kを殴った私の拳は、その後数日間ずっと腫れ上がっていました。下手な殴り方だったのでうまく拳が当たらず、指を痛めたようでした。しかし、その腫れた拳は私の決断と行動の結果を証拠付ける記念として感じられていたので、むしろ快いものでした。

今日の話はあまり人に自慢できることでもありませんし、Kを殴ったことが正しいことだったのかどうか分かりません。Kはその後病気で亡くなりましたが、今でもあのとき殴っておいてよかったと思っています。

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世の中善人ばかりではない

私が比叡山の小僧になったとき、師匠である内海俊照師の元には私を含めて8名の小僧がおりました。その中に、Kという30過ぎの先輩がおりましたが、この人にはずいぶんと苦しめられました。

自分には能力がないのに、下にはやたらと威張り散らし、上にはひたすらおべっかを使う、学校でも、会社でもこういった人物はいると思いますが、Kはこの典型的な男でした。

寺には小さな畑があり、茄子、キュウリ、さやえんどう、大葉などを作っていました。私が小僧になって間もない夏の午前中のこと、Kが私に、畑に水をまくように命じました。もちろん、私は素直に水をやりましたが、そのことを後から師匠が知ってかんかんに怒りました。夏の暑い時期の午前中に植物に水をまくと、水が熱を持ってダメージを与えてしまうので水は夕方にまく、というのが、私が後で知ったこの世界での常識だったのです。

師匠は台所の土間に出てきて、Kと私を問い詰めました。

師匠:「何でこんな昼間っから水をやったんや、K、お前が指示したのかっ?」
K:「いいえ、私はそのようなことは申しておりません」

私は一瞬頭の中が真っ白になりました。これほどきっぱりと嘘をつく大人を見たことがありませんでしたから。そしてこう思いました。
「先輩で、30過ぎの大人で、寺で修行するという志を持った人間ならば、正直に私が指示しましたと言うべきだろっ。仮に私が独断でやったとしても、それをかばうのが当然じゃないのか?」

このときの師匠とKのやり取りには、私は口を挟めませんでした。何をどう弁明していいのか分かりませんでしたし、15歳の少年が大人同士の激しいやり取りにうまく割って入るコミュニケーションスキルなど持ち合わせているわけがありません。また、余計なことを言うと益々自分が悪者になるような気もして、ただ沈黙していました。

この後、やにわに師匠はKに対して、「メガネをはずせっ」と怒鳴ったかと思うと、Kの頬を「バチーン」とひっぱたきました。そして私を睨みつけて、「ええかっ、Kはお前の代わりにどつかれたんやぞっ」と言い捨ててその場を去りました。

私はやり場のない怒りを感じました。そして師匠に対しても自分勝手な思いを心の中でぶつけていました。

「仏門に仕えるものならば、Kが嘘をついているのか分からないのか?」
「ド新人の小僧が勝手も知らない畑で、命じられもしないのに自発的に水をまくはずがないではないか」
「どうしてKなんかの言うことが信用されて俺は誤解されるのか」
などなど

そんな調子でKにはその後もずっと苦しめられ、そしてある日、ついに私はキレましたが、その話はまた後にいたします。

この会社にはKのような人間はいませんが、世の中にはこのような人が確かにいます。また、会社という組織を人とみなすと、このように行儀の悪い振る舞いをする会社もたくさんあります。

サッカーのようなゲームの世界では、うまく審判の目を誤魔化して相手を転ばせたり、ユニフォームを引っ張ったり、蹴飛ばしたりすることは普通ですし、わざと転んでPKを奪うなどということは逆に技術として評価されたりします。

欧米、特にヨーロッパでは歴史的に泥棒が一つの技術としてもてはやされるといった風潮があります。話は逸れますが、私がスペインの地下鉄に乗ったとき、駅で降りようとすると一人の若者がドアをふさぐようにして向こう向きに立ちふさがり、ホームにいる女性と話を始めました。私はこの若者の後ろでもたついていると、グルになっているもう一人の仲間が私の尻ポケットから財布を抜き取ろうとしました。私の妻がそれに気付き、他の乗客も注意したので事無く済みました。ちなみに、若者が声をかけたホームの女性は、突然話しかけられて当惑していたので、恐らく赤の他人だと思われます。そのあともこの連中は私の後をくっついてきて、エスカレーターのところで再度私の財布を抜こうとしたところを妻に注意され、両手を上げておどけて見せたそうです。彼らにとっては、このような行為はちょっとしたゲームのつもりなのでしょう。

日本人は比較的道徳心が強いとは思っていますが、中にはどうしようもなく卑怯な人間もいます。何はともあれ、そういった人とは距離を置くように努めるのが賢明でしょう。でも、自分の上司がこのような人間だと困りものですね。次回はそんな状況にいた私がついにキレた話をします。

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情けない就職活動

先週、今年つまりこの3月に卒業するという学生さんが2名応募してきました。世間一般からするとずいぶん遅い就職活動ですが、私も似たような経験をしてきているので他人事とは思えませんでした。そこで今回は、私の就職活動を参考までに話したいと思います。この時期はどうしてもこういう話題になりますね。

私は1980年に日本工学院専門学校に入学しました。選択したコースは情報技術科といって、コンピュータのハードウェアを学ぶ所でした。この科は大変厳しくて有名で、入学時150人くらいいた学生が、2年生になるときは半数に減り、卒業できたのは1/3程度だったと思います。

入学したばかりの頃は学生が多くてギュウギュウ詰めだったので、教室が狭いという苦情が出ましたが、それに対して先生は「夏休みを過ぎれば空くよ」と涼しい顔でいいました。最初その言葉の意味が良くわかりませんでしたが、実際夏休みを過ぎるとかなりの人数が学校に来なくなり、確かに教室はゆったり使えるようになりました。

この学科には熱心な先生がたくさんいましたが、中でも浜崎先生(尊敬をこめて実名で表記します)は熱血指導で有名でした。遅刻して挨拶なしで教室に入ってきた学生にはビンタを喰らわせていました。この先生の言葉でよく憶えているのは、「フィールド(社会)に出たら自分の稼ぎで飯を食え」、「派遣会社には就職するなよ」というアドバイスでした。しかしながら、この言葉の意味を理解するのは卒業して何年も後になってからでした。結局私は、派遣社員として社会人のスタートを切ってしまいました。

私は、高校時代は寺で小僧をしていてまったく遊ぶことが出来なかったので、その鬱憤晴らしというわけではありませんが、専門学校に入ってからは学校をサボってマージャンをしたり、映画を見に行ったりする仲間とつるんでしまいがちでした。それでも何とか2年生に進学できましたが、私の遊び仲間は皆、留年してしまいました。

2年になると、親しい友人は(留年して)いないし、コンピュータ実習ではオタク系学生がマシンを仕切っていてその輪に入ることができず、自然と学業がおろそかになり試験は赤点ばかりということになっていきました。そんな状況でしたので、学校からの卒業見込みがもらえませんでした。卒業見込みがもらえないということは、就職活動ができないということです。

ところで私は、先の浜崎先生が紹介してくれた会社で、1年生の後半からアルバイトを続けていました。この会社は、遠心分離機などを製作していて、同じ学科のOBが経営しているハードウェア会社でした。この会社では学校からアルバイトを募集して、見込みのある学生はそのまま正社員として採用するケースが多かったのですが、どうも私はお眼鏡に適わなかったらしく、社員にならないかというお誘いはいただけませんでした。

そのようなことでずるずると時間が過ぎていき、2年生として就職活動をすることなく年の瀬を迎えました。まもなく正月ということで、比叡山の師匠のところへ年末年始の挨拶に行きました。師匠の俊照阿闍利のところへ行って、その後、師匠の師匠で、京都赤山禅院の叡南覚照住職(私たちは御前様とよびますが)にお会いした際、就職のことで進路が決まらないという話をすると、京都でソフトハウスを経営しているK社長を紹介してくれました。

そのときK社長と会ったのか、電話で話したのか、今ではよく覚えていません。その後、京都の本社に行ったことと、K社長が上京したときに、私の両親と共に話しをした記憶があります。私はハードウェアの仕事がしたかったのですが、K社長が「うちも将来はハード絡みの仕事をやっていきたいと思うから、うちに来ないか」と誘ってくれたものですから、他にあてもないし、主体性というものがほとんどなかった私は、フラフラとその会社に入社させていただくことになったのでした。

ちなみに、覚照住職のところへはCSKの故大川会長も信者としてお見えになっていたので、その関係でCSKに入社した知り合いもいました。もしも私がCSKを紹介されていたら、また違った人生になったかもしれません。私は大川会長にはお目にかかったことはありませんが、寺には会長からもらったというチャウチャウ犬(アイコという名前だったかな)がいて、行くといつも撫でてやるのですが、その後手がとても臭かったのを覚えています。この種の犬は体臭がきついようでした。

このような形で安易に就職してしまった私ですが、そのツケは後からやってくることになりました。そのあたりの話は既にしたと思いますが、いずれにしろ私の就職活動はこのように惨めで情けないものでした。

学校の方は卒業できないままに4月を迎え、当然ながら卒業式にも出席できませんでした。一時は卒業をあきらめかけましたが、5月の連休中に徹夜して何とかレポートと卒業制作のワンボードマイコンを仕上げ、学校側もどうにか卒業を許可してくれることとなりました。卒業制作担当のK先生が、私の作ったワンボードマイコンの出来具合(自作のアクリルケースにインスタントレタリングで文字を貼り付けたもの)について「お前もちゃんとやればこんなに素晴らしい作品が出来るんじゃないか」と褒めてくれたことを、素直に嬉しく感じました。また、職員室で卒業証書を手渡されたとき、「僕が学年で最後の卒業生ですね」などと意味のない確認をして帰ってきたことを憶えています。

今活躍している企業の社長の中には、学生時代から起業を目指していたり、大学生のうちに会社を興して成功している人もいます。先日も東工大のセミナーで、学生でありながら既に会社を起こしている学生がいましたが、大変覇気があり私の学生時代などとは月とスッポンで、比べ物にならないほどしっかりしていました。また、今通っている大学院(アントレプレナー専攻)でも同じように起業している学生がいます。しかし、実際はそのように目標をしっかりと持った学生は一握りで、多くは私のように就職を目前にして戸惑い、悩み、迷っている学生が過半数ではないかと思っています。まあ、それでもよいではありませんか。人生のテイクオフは無様でも、いつか目標をもちさえすればきっと上昇気流に乗れると私は信じています。

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番外社員

私が最初に勤めた会社、K社の社員旅行に行ったときの話です。

宴会の席で、普段顔を合わせることのない京都本社の社員から、この会社に入るときに入社試験があったという話を聞きました。私は寺の師匠にK社長を紹介されてすんなり入社し、試験のことはまったく知らなかったので少し驚きました。そしてそばにいたK社長に聞きました。

私:「この会社は入社試験があったんですか?」
K社長:「そうや、みんなちゃんと試験を受けてこの会社に入っとるんや、そやからお前は番外やっ!」

この言葉には腹が立ちました。試験があるなら受けさせてもらえればよかったし、この会社に入れてくださいと無理に頼んだわけでもなく、社長に誘われたから入ったのですから。仕事の面でも、会社でお荷物になっているわけでもないし、私よりも仕事ができない社員はたくさんいました。

そのときこう思いました、「ようし、それならばこの会社にとって必要欠くべからざる存在になってから、あっさりと辞めて困らせてやる」と。

京大出身のK社長は、自分が一番優秀で正しいんだという自信があるようでしたが、それが常に社員を見下している態度になって現れていましたし、私には社員をモノ扱いしているように感じられました。

この社長は学歴を重視するところがあり、大卒だからということで優遇することがありました。私よりも2年ほどあとに中途採用で大卒の人が入ってきました。私よりも年上でしたが、業務の経験はありませんでした。あるとき何かのきっかけでこの人に賞与の明細を見せてもらったのですが、その金額を見てびっくりしました。基本給も賞与の額も私よりも断然良かったのです。大変おとなしくて従順で、優しい人でしたが、正直言ってこの業界向きのセンスを持ち合わせている人ではありませんでした。

しかし社長はずいぶん期待していたらしく、あるシステムの設計をやらせていましたが、彼にはかなり重荷になっていました。結果としてこのシステムは私が全て面倒を見ることになり、設計も最初からやり直しました。さすがに社長も期待はずれだったことに気付き、その人に対する態度が手のひらを返したように冷たくなりました。

結局この会社は入社後3年ほどで辞めました。私が辞めたことでどの程度のダメージを会社に与えたのかは分かりませんが、私がいた東京事業所はその後まもなく解体となり、多くの社員は転職するか、派遣先の会社に引き取られるなどして、社長について本社に戻ったのは私が知る限り一人しかいませんでした。

今はちょうど、来年の新卒者向けのリクルート活動の時期で、先週も企業説明会に行って学生に色々と話をしてきました。そのような時、学生に必ず話すのは、わが社は学歴や年齢に関係なく、実力を評価するということです。もちろん入社時に高卒か大卒かで初任給は異なりますが、そのようなものは1、2年もすれば人事評価システムが働いて、意味がなくなります。実力主義というと厳しいように捉えられるかもしれませんが、だれでも正当に評価されるという点でフェアなやり方だと思っていますし、評価されれば人はプライドを持てるようになるものです。どうか日々研鑽して、技術者としてのプライドが持てるようになってもらいたいと願っています。

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