私は18から19歳の2年間、専門学校でハードウェアを中心としたコンピュータの勉強をしていましたが、同時にこの業界の会社でアルバイトを1年ちょっとやっていたので、多少の就業経験を持つことができました。
その会社はR社といって、遠心分離機の制御装置などを製作していたファーム、いわゆる組込み系を得意としていた会社です。私はここで、今から考えると貴重な体験をさせていただくことができました。
紙テープへのパンチ、ワイヤラッピング、フセン(字を忘れた)チェックなど、今の人が聞いても何のことか分からないでしょう。「阿部君、ちょっと調布へ行ってきてくれるかな?」と言われると、それは紙テープとEP-ROMを持って調布のROMライターを持っている会社へ出かけていき、紙テープの内容をEP-ROMに焼いてもらうと言う作業をしに行くことでした。いまでいうと、フラッシュメモリにデータをコピーするようなものですが、たったこれだけの事をするのに神田から調布までえっちらと出かけていった時代でした。
バイト先は最初、竹橋だったのですが、そのあと大塚に会社が引っ越し、蒲田から通うには山手線を一周する必要があり、学校が終わってから1時間掛けて通勤し、3時間ほど仕事してまた1時間掛けて帰宅するというなんとも効率の悪いバイトでした。しかも、時給は当時としてもかなり安めの480円でしたから、あまりモティベーションは上がりませんでした。
蒲田の工学院通りに370円で食べられる安いカツ丼屋があって、私はいつもここで大盛を食べていたので確か450円だったかと思います。1時間アルバイトしても一食分で消えてしまうと言うことに虚しさを感じていました。
そんなわけで、R社での私の働きはあまり芳しいものとは映らなかったようです。なぜなら、この会社では学生アルバイトをインターンのような位置づけとしており、これはという学生をリクルートするのが常だったのですが、私は一向に社員としてのお声はかからず、後からバイト生として入ってきた同級生が先に正社員として採用が決定したことからも明らかです。
R社はとても良い人たちばかりで、まだ会社というものを良く知らない私にはとてもユニークな人たちとして映りました。高校時代は寺で色々な大人と付き合いましたが、あまりに世間一般とかけ離れていたので、普通の会社の普通の人たちがとても新鮮に感じられたのでした。その中で、際立った個性を持った人がH部長でした。私より一回り年上の長髪で、見るからにジョンレノン命と言った感じの人でした。H部長はビートルズ、プレスリーあたりが好きだったようですが、私もそのあたりの音楽は好きだったのでよく話をしましたし、当時流行ったスネークマンショーのレコードを私が買うと、嗅覚の鋭いH部長はそれを聞かしてくれと私にねだったりしたものでした。
1980年の12月、バイトに出かける前に聞いたニュースでジョンレノンが射殺されたことを知り、それをR社に出勤したときに今日の話題的な軽い世間話のつもりで皆に話したとき、H部長は「嘘だろっ!」とすごい形相で私を睨んだので、その反応のすさまじさにこちらが驚いてしまいました。その後、会社中は大騒ぎになり臨時ニュースなどでそれが事実と知ると、H部長は絶句したまま放心状態になってしまいました。何か私がすごく悪いことをしたようで後味が悪かったのを覚えています。
しかしこのH部長、仕事では大変に厳しい人でした。物を聞くときにメモを持たずにいると怒られましたし、そのメモを家においてきたときには、「もう大人なんだから自分のものはきちんと管理しろ」と叱られました。その頃の私はやはり、指示待ち人間だったのでしょう。言われてもいないことはやらなくて当たり前と言う態度がH部長には気に入らなかったようで、仕事での私に対する風当たりはかなり厳しいものでした。
今考えると、H部長はバイトだからといった差別はせず、将来のことを考えて厳しく指導してくださったのでしょうが、こちらの考えとはかなりギャップがありました。まず、アルバイトの動機としては、単にお金を稼ぎたかっただけで、このバイトをする前に近所のパブのアルバイト募集に応募しましたが、酒を出す店で未成年は雇えないということで断られ、仕方なく学校の先生に相談したら紹介されたのがR社だったのです。だから、他の学生バイトのようにこの会社に正社員として入社するためのトライアルと言うような意識はまったくありませんでしたし、なにより時給が480円で通勤に1時間もかかると言うことでかなり嫌気がさしていたのでした。
R社では、アルバイト学生に対しては担当社員がいて、直接的な作業指示はこの担当から出るのですが、あるときその担当がやさしくて人当たりの良いMさんからH部長に代わったのです。H部長は、「これからは俺の流儀でビシビシやるぞ」と妙に気合が入っていました。そして彼の言葉通り、仕事でかなり厳しく指導されるようになりました。当時は基板のパターンを何倍かに拡大したものをトレーシングペーパーに印刷して、それを元に基板を起こすのですが、その配線のチェックをH部長と組んでやらされ、あれはどうなった、これはどうなったと怒鳴るように指示されたり詰問されたりしてかなり追い込まれました。自分としては、意図的に厳しく接してモノになるかどうか試そうとしていたと言う意図は感じられたのですが、なにせそれに応えるだけのモティベーションを持ち合わせておりませんでした。なんで時給480円でここまで言われなきゃならんのだと言う思いのほうが強かったのです。
そしてまもなく私はこのバイトを辞めたいと申し出ました。それを聞いたH部長は別に表情を変えることなく「ふーん」と言う程度でしたが、期待外れで残念に思っているのだろうなということはなんとなく私にも感じ取ることができました。そしてそれ以来R社の人たちとはご縁がありませんが、自分の中では複雑な思い出として今でも忘れられずにいます。