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私は例年、大学生および高専の学生を対象としたある競技会の運営のお手伝いをしている。参加チームは30余り、海外の大学からも参加する国際大会である。先日もその競技会が開催された、その時の話。
2日間の大会が終了して表彰式へと移った。入賞した各チームの学生たちがステージ上に呼び出され、主催者側から表彰状や賞品を授与された。その際、壇上の学生にマイクが向けられ簡単な挨拶をしてもらうのだが、この話がどうにもお粗末である。
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聞いていた私は、てっきり留学生かと思ったほど日本語がたどたどしい。学生達の話の内容は、大体は受賞してうれしかったというようなことを言うのだが、それ以外の言葉がほとんど聞かれない。大会に向けての準備の大変さだとか、競技本番で思いもかけないアクシデントがあったとか、何かしら話すべきことはあると思うのだが、彼ら(彼女ら)は何を意識しているのか、ほとんどまともなスピーチができないのである。付け加えると、この競技に参加しているのは東大をはじめとした有名校の学生ばかりである。
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マイクを向けられると皆一様に緊張する。そしてお決まりの「受賞できてうれしいです」、あるいは「受賞できるなんてありえないと思っていました」、などというお決まりの一言はいうのだが、その次が出てこない。きっと頭が真っ白になっているのだろう。たまにちょっと気の利いた感じで話し始める学生もいるが、それもほんの束の間で、1フレーズ言い終わるとその後が続かなくなり沈黙、しばらく嫌な間があき本人も耐えられなくなり「以上です」と尻切れトンボになる。
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そうした彼らも学力は優秀で国際的に見ても他の国の学生に比して能力が劣っているわけではないと思う。きっと携帯メールでコメントを求めると、いろいろな面白い話をしてくれるのかもしれない。ついでに言うと、当日受付にいた私のところに小学生が何やら訴えに来た。あまりにも言葉が断片的で拙い話し方なので外国人かと思った。しかしよく話してみるとまぎれもない日本人、女性スタッフが親切に聞き出してみると、なにやら忘れ物をしたということを言いたかったらしい。家庭内でも単語だけで親と会話しているのではなかろうか。やばいぞ、日本。
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さて、なぜステージ上に立った学生が突然言語失調に陥るかというと、日頃からオフィシャルな場での受け答えや振る舞いを要求される機会が絶対的に不足しているからであろう。これは国際社会で活躍を期待される日本の若い人材としては、ゆゆしき問題だと思う。しかし基礎的な学力不足などとは違い改善することはさほど難しいことではないとも思う。つまりは教育の場で、もっとそうした場数を踏む訓練を課せばよいだけのことである。
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私が昨年卒業した社会人大学院では、学生がそれなりのキャリアを積んだビジネスパーソンが多かったので、講義中でも自発的にどんどん質問、発言し議論したので、教授たちも非常に喜んでいた。特に外部講師としてお出でいただいた、普段は他の大学で学部生を教えている教授からは、しきりにその積極性に感心なさっていた。そして、アメリカの大学ではもっとアグレッシブであり日本の一般大学生のあまりのパッシブな態度に将来を悲観しているといった話を複数の教授から伺い、私にも大いに思い当たることがある。
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私の意見としては、「日本の義務教育及び高校での教育の現場があまりにも閉塞的だから、パッシブな学生が生まれるのは当然の帰結である」というものである。
日本は永らく農耕民族であったせいか、集団と個人の違いが非常に意識される社会である。農村では一人あるいは一家族で自己完結的に存在することは不可能であった。モンゴルの遊牧民は1家族で羊を追いながら生活するのが普通だったし、中東の砂漠の民も同様であった。
しかし国土が狭い日本では勝手が違う。農繁期になればお互いに労働力を融通しあってこれをこなす必要がある。例えば藁葺き屋根のふき替えが必要なら、村中の人々が協力して一軒の家の屋根を葺いてくれる。だから「和」というものを非常に大切にしたのではないか。
その反面、集団から外れることは非常に恐ろしいことだった。他者の協力が得られないということは生存の問題に直結する。だから村八分にされることを極度に恐れるのだ。現代の都市部の生活であれば、他者に干渉されないということはそれなりに快適であるが、かつての農村での生活では衣食住すべての調達に支障をきたす。
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そんな背景から、人々はある集団(あるコミュニティ)に属することで安心感を得る。そして突出した行動をとって目立つことを嫌い、特定のリーダーが直接的に物事を決めるというよりは、昔からの慣習や寄り合いなどの阿吽の呼吸(つまり空気を読む)で進む方向を決めるのである。
彼らの、「集団に属している」という安心安泰な地位を保全する手っ取り早い方法は、共通の敵を作ることである。しかもその敵は強大で自分たちの存在を脅かすようなものではなく、弱者である方が都合がよい。
仮に100人の集団があったとき、敵の全くいない状態では内部分裂や、いつ自分がはみ出すかという恐怖感にとらわれ続ける。しかし、100人の中から1名の敵を作りだせば、残りの99人の結束は固まり、共通の敵がいない100人の集団だったときよりも安定感は高まる。つまり、押しくらまんじゅうのように、だれかをはじき出すわけである。哀れな犠牲者は残りの大多数の集団の安定のための人身御供となるわけである。