【2011年5月16日の朝礼でのスピーチより】
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先週に引き続き、震災ボランティアでの体験談です。
「地元の人々」
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ボランティアの拠点となっている真壁病院脇のキャンプで昼食を食べていると、すぐ隣の施設で避難生活をしているお婆さんがタッパを3つほど抱えてきて私に話しかけてきました。こちらの地方は方言が強いので正確には聞き取れませんでしたが、「お赤飯を炊いたので皆さんで食べてください、ご苦労様です」とおっしゃっていたようでした。ご自身は避難生活をしているにもかかわらず、我々に差し入れをしてくれたのです。お礼を言って、ボランティア仲間にそのことを告げて、赤飯、菜の花やオクラの和え物などをおいしくいただきました。
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2日目の現場である農家の庭の片づけは、現地の人たちと混じっての活動でした。休憩時間に何やら会話をしますが、やはり方言がきつくて半分くらいしかわかりません。夕方になって一人の現地の方が、「今日はハイヒールあっからよ」みたいなことを私におっしゃいました。何のことかな?と想像を巡らします。近所にそのようなキャバクラでもあって、一緒に行こうと誘われているのかなと思ったり(?)。しかし、よくよく聞くと、ふざけてハイヒールと言っていただけで、それは豚足(トンソク)のことでした。夜の酒のつまみにでもしてくれと、豚足を差し入れてくれたのです。
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ビニール袋に10個ほど入ったそれを受け取った私に、「1本が二つに割れるから20人分だ、塩で味付けしてあるからそのままいけるよ」と教えてくれました。キャンプに戻ると、早速いただいた豚足を配ります。どうも男性はその見た目で敬遠する人が多く、女性の方がトンソク好きな人が多いという傾向がありました。秋元社長がちょうどトン汁も作ってくれていたので、トン汁にトンソクを入れて食べる人もあり、ご厚意をありがたく皆で分け合いました。
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地元の方との会話は東北弁で聞き取りが難しいですが、新鮮な気分が得られます。私は今までこちらの地方へ来たことがなく、いわゆる東北弁がこれほど訛っているとは知りませんでした。東京に来ている東北出身の知人はいますが、彼らは本当のお国訛りで話すことはないのでしょう。東北弁は多少アクセントが違うくらいかなと思っていた私にとって、地元の方と話をする機会を得たことはとても良い経験でした。
「土砂に埋まった写真」
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3日目の現場はつぶれたビニールハウスがあったのでおそらく農地と思われます。ただ、私がかたづけた場所は衣類や本なども多く埋まっていたので、人家もあったのかもしれません。津波で運ばれた土砂で埋まってはいるけれども、そこには人々の生活があったという証がいろいろと出てきます。
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熊手で地面を引っ掻いてゴミを寄りわけていると、ときどき紙切れが見つかります。それらは老齢年金のお知らせのはがきだったり、名刺だったりしますが、色鮮やかなカラー写真が出てきたりもします。表面の砂を払うとそこには、私も家族で行ったことのある沖縄の水族館で見知らぬ女性が笑顔で水槽を背景にして写っておりました。写真の主が無事であることを祈ります。こうした写真類は保管してしかるべき場所に引き渡します。
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がれきの中に子供のおもちゃやベビー用品などを見つけると、「これと似たようなおもちゃは我が家にもあったな」と、どうしても身近に感じてしまい、我が子と照らし合わせて重い気分になります。それと同時に、家族全員健康で住む家もある、今の自分の生活のありがたさを感じます。
「津波」
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以前、私は津波というものがこれほど破壊力を持っているとは知りませんでした。大雨が降ると床上浸水したりしますが、それの大規模なもの程度にしか考えていませんでした。濡れたら乾かせばいいし畳を替えればまた住めるだろうくらいの感覚でした。大きな地震があるたびに発令される津波警報では、予想される津波の高さ30cmなどと伝えられます。30cm程度ならわざわざ警報を出すまでもなかろうと思っていました。海水浴に行ったって1mくらいの高さの波はあたりまえですから。しかし、2004年のスマトラ沖地震の時に津波の破壊力がようやく理解できました。
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今回津波に襲われた場所を見ると地表は多くの砂に覆われており、丁度潮干狩りの干潟のようです。これまでは普通に生活していた庭や田んぼが、突然砂浜になってしまったと考えてもらえればわかりやすいでしょう。そして表面は不気味にひび割れてからからに乾いて、嫌なにおいが立ち込めているわけです。
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大量の藁にも泣かされます。土とわらが混じって木や竹、家屋の柱などに絡みついているので、これを取り除くのは容易ではありません。昔の日本家屋では土とわらを混ぜて壁土を作るのですから、それだけ頑丈なわけです。藁は腐ると不快なにおいを発します。こうした土砂を人力でかき出さなければなりません。自分の家がこのような状況になり、だれも助けてくれないとしたら気力も体力も失せるでしょう。
「石巻港の惨状」
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最終日の夜、石巻港を見て回りました。ここはこれまで見てきた農地や宅地とはまた次元が違う惨状でした。人気のない街はがれきや焼け焦げて積み重なった車、破壊された家屋や工場がそのまま手つかずとなっており、恐ろしい光景を呈していました。夜ということもあり、その辺り一帯ははより一層悲惨で“壊死した街”という印象を受けました。港に近い学校では、鉄筋3階建ての立派な校舎が真っ黒に焼け焦げており、近くの病院も真っ暗で不気味な沈黙を守っています。
港には、沈んだか座礁した船を引き揚げるのでしょう、「日本サルベージ」と書かれた巨大なサルベージ船が停泊しておりました。破壊された街を見ていると、経験したことはないけれども戦争で空襲を受けた後の街はこんなだったろうなと考えます。ただ、その当時と違うのは今の日本は平和であり、世界中から支援を受けており、日本自体もこのような巨大なサルベージ船を即座に派遣するだけの国力を持っているということです。この国と国民はこの苦難から復興できる力を持っているはずだと感じました。