コメントする / 雑記 今回は就活中の新卒者に会社説明会でお話しする内容をそのまま掲載します。 会社説明会 株式会社クオーレ 今日はITエンジニアを目指す学生さんに向けて、私の体験をもとにお話をいたします。 東京都大田区蒲田生まれ 糀谷町4丁目(現東糀谷4丁目)の工場街(昭和31年) 蒲田駅西口商店街 (昭和31年) 私が生まれたのは1962年、今から60年余り前になりますが、場所はこの会社のある東京都大田区蒲田であります。住んでいた家の周りには町工場がたくさんあり、職人さんが物を作る様子を見て育ったので、自然とものづくりに興味を持つようになりました。何となーくですが、将来は大工さんか伝統工芸の職人になりたいな、と思っていました。中学生のころになると電気の分野、エレクトロニクスに興味を持ちはじめ、秋葉原に出かけて行って部品を買い込んではデジタル時計や簡単なテレビゲームを作るようになりました。 出典 : 大田区ホームページ 寺での三年間の生活 比叡山延暦寺 得度式(中3) 護摩木作り 信者様への給仕 京都切り廻り しかし、詳細は省きますが中学三年の時に親に無理やり比叡山延暦寺の寺で出家させられました。今でいう宗教2世というやつですな。比叡山の中にある寺に小僧として住み込み生活をしながら高校に通いました。千日回峰行という荒行をしている師匠の下で休みもなくこき使われる毎日で、東京でのそれまでとは真逆の生活を強いられました。休日も自由時間もなし、肉や魚は食べられず、師匠には怒鳴られ叩かれという毎日です。この当時の私の夢は「マクドナルドでビッグマックを食べる」ことでした。ささやかなもんです。親は私を坊さんにさせたかったのかもしれませんが、私は何としても普通の生活をしたかったので、高校を卒業すると同時に逃げるように寺での生活を終わらせました。 法脈上の相関 コンピュータとの出会い 月刊アスキー(1979年8月号) 日本工学院蒲田校 しかし、高校三年間は寺の生活が主体で受験勉強などしていません。大学への進学もままなりませんでしたので、入学試験の無い実家の近所にある専門学校に入学しました。高校三年の時に書店で買ったコンピューターに関する雑誌を見て、コンピューターというものに大変な興味を持ちましたので、専門学校での専攻はコンピューターのハードウェア科を選びました。この学校で2年間勉強したのですが、高校の時に全く遊べなかった反動で、授業をサボって麻雀をするなど、悪友と遊んでばかりいたために卒業見込みがもらえず、就活は全く行わずに卒業の年を迎えてしまいました。卒業の年の1月になって、世話になったお寺に遊びに行った際にコンピューター会社を経営している社長を紹介され、何とかその会社に入社することができました。 社会人生活スタート 富士電機東京工場(東京都日野市) この会社は本社が京都にある社員30人程度の会社で、私は東京配属で入社1日目から富士電機という大会社に派遣されて仕事をするようになりました。しかし、私が学校で勉強していたのはハードウェアであり、職場での仕事はソフトウェア開発でした。学校でもソフトウェアの科目はありましたが、私はこれがどうも苦手でまともに勉強はしていませんでしたので、就職して一からソフトウェアの勉強を始めたという状態でした。 埼玉県 大久保浄水場 新潟県 妙見浄水場 入社後半年くらいは、この仕事は自分には合わないからやめようと思う毎日でした。しかし半年経過したころから少しずつ面白さがわかり始めました。そうなると、自ら進んで色々な勉強をするようになり、それと同時にどんどんと実力が付くようになりました。何事も、興味を持ち面白いと感じながら仕事をすることが自分を成長させる一番の秘訣だと思います。そんなこんなで入社2年目からは公共事業プロジェクトのリーダーを任されるようになり、3年目くらいになると自他ともに認めるエンジニアになった、はずでした。しかし社長の評価は芳しくなく、顔を合わせるたびに小言を言われ続けました。 バンド活動 ロックバンドのボーカリストとして イカ天収録 一つの理由としては、私が会社勤めをしながらバンド活動をしていて、パートがボーカルだったこともあり髪の毛が長かったり会社にジーパンで行ったりしていたのが気に入らなかったようです。蛇足ながら、バンド活動は、29歳の時に当時人気のあった「イカ天」というテレビ番組に出演したりして、自分自身を振り返ることにもなり、もういいかなと思ってそれから間もなく辞めました。しかし、いくら社長から小言を言われても、黙って聞く私ではありません。何か言われれば激しく反論し、くだらない競争をしたりと真っ向からぶつかっていきました。自分としては、仕事は人並み以上にできている自信がありましたし、寺での辛い3年間を経験しているので普通の20代の若者とは違って世間ずれしていたので、怖いものなどありませんでした。寺での生活はある意味一度死んだようなものでしたからね。 そして起業 創業は立川のパン屋さんの2階 そして4年経ってついに会社を辞めることになりました。社長と口論の末に啖呵を切って辞めたので、次の仕事などは決めておりませんでした。10日ほどのんびり過ごしてから駅前のマクドナルドでバイトでもするか、と考えていた矢先に派遣先の部長から電話があり、直接契約で仕事を続けてくれないかとオファーを受けたのです。提示された時給はマクドナルドの比ではありませんでしたから一もにもなくOKしました。結果、最初の月の収入は150万ほどでした。1985年ごろの話です。その前までの月給が12~13万程度だったと思うので軽く10倍です。所得税の金額がそれまでの給与よりも高かったことを覚えています。そういった体験を通じて、世の中の中小企業には会社にいいように使われて正当な評価と報酬を得ていないエンジニアがたくさんいることに気づきました。そういったエンジニアたちが正当に評価されるようにするためには、自分自身で会社を作るべきかな、と考え始めたのがこのころ、24歳の時です。経緯は省略しますがその後29歳の時にこの会社を作ったわけです。さて、ここでお伝えしたいのは、自分の腕で生活できる人間になることの大切さです。つまり昔風に言えば「自分の腕で飯を食う」ということ、ITエンジニアであれば、自分の力で生活できるだけのスキルを身に付けるということです。 自分の腕で生きていけるエンジニア これは、人に依存して生きる、会社に依存して生きるというのとは大いに異なります。人に依存するとは、例えば結婚してパートナーの稼ぎとか、親の年金や遺産とかを収入の大部分として頼るということです。会社に依存するとは、それが大会社か中小企業かに限らず、会社に所属することで安定した収入を得るということです。これが長く続けばいいですが、離婚した、親が亡くなった、会社が倒産した、リストラにあった、そうした運命の荒波が襲ってきたときにたちまち困窮します。一方、自分に確たる技術力があれば「なあに、自分の技術があれば引く手あまたさ」と余裕でいられます。私の体験で述べたように、社会に出れば学歴よりも能力が評価されます。学校では容姿、つまり見た目がいいとか、スポーツができるとか、勉強ができるといったことで序列が決まる面がありますが、社会は違います。私が20代の時「社会とはやさしいものだなあ」としみじみ感じたものです。土日は休みだし残業すれば残業代がもらえる。また学校と違って能力さえあれば認めてくれる。ここでいう能力とは、生まれ持った才能ではなく、努力して身に付けるものを言います。 多様な生き方 サイパン島慰霊法要 栢木社外取締役 サイパンの子供を善光寺に招待 合気・居合 初段 皆さんの、ITエンジニアになるという選択は今後の世の中の動きから見ても間違っておりませんから是非一人前のエンジニアを目指してください。そう長い先ではないですよ、せいぜい5年努力すればそうなれますから。そうしてしっかりと生活の基盤を築き、自分の時間を持てるようになったら次のステージ、家庭を持つ、趣味を生かす、より上のスキルを身に付ける、独立して会社を興す、などといった夢に向かってもらいたいと思います。私という人間を形成している背景には、寺での3年間の生活や10年以上にわたるバンド活動、20年ほど続けた海外ボランティア、10年前から始めた合気道・居合道などがあります。なお、クオーレの社外取締役は高校時代にお世話になった私の兄貴分といえる方になってもらっており、この方は今は滋賀県の野洲市の市長です。またこの方のお兄さんは、寺にいたときに1年以上寝食を共にした方で今は長野善光寺のご住職です。私自身が仕事をしながら色々な社会活動をしてきた経験上、会社としてもそうした事ができる環境を用意したいと思っています。この会社には、今は何の能力も無くても将来は一人前のエンジニアにしてくれる環境が整っていると信じています。ぜひエントリーしてみてください。 人生を楽しもう つらい体験も感謝と喜びにに振り替えて さあ、人生を楽しみましょう。高い入場料を払ってディズニーランドに行ったのに、中で1日ベンチに座って何もしない人はいないでしょう。様々なアトラクションに乗って、日常ではありえないスピードに叫び声を上げたり、水しぶきを浴びたり、モンスターに驚かされて恐怖におののいたとしても、それを体験するために、高いお金を払って長時間並んでいるのです。人生も同じです。折角生まれたのであれば、よいこともわるいことも全ては体験だと思ってそれを満喫するような心持ちでいればいいのです。皆さんのご健闘をお祈りいたします。