先月も話しましたが、休みの日には1、2時間ほど散歩をするようにしています。ここ1年程の習慣ですが、心肺機能を高めるためにわざと階段や坂道を選んで歩くようにしています。コースは色々で、私は池上という町に住んでいますのですぐそばの池上本門寺を拠点として、ここから明治の文豪がたくさん住んでいた馬込の文士村とか、勝海舟の墓がある洗足池とか、富士山が良く見える多摩川大橋まで行く、などでだいたい7キロから10キロ近く歩くことになります。
私は寺で小僧生活をしていた時分は、千日回峰行の行者であった師匠のお供で比叡山の山の中を30キロほど歩くのが日常でしたから、長距離を歩くことには慣れています。
散歩の途中で少し小高い所に立つと、天気の良い日は富士山が見えることがあります。池上本門寺の展望台や多摩川大橋の上からなどはとても良く見えるので、そんな日は少し得をした気分です。
富士山については、幕末の三舟と数えられた山岡鉄舟が宮中で詠んだ歌で「晴れてよし曇りてもよし富士の山、もとの姿は変らざりけり」というのがあります。ちなみに、幕末の三舟とは山岡鉄舟、勝海舟、高橋泥舟の3人です。
この歌の解釈は、自分自身を富士山になぞらえて、常に泰然自若としてどっしりと構えていたいものである、というものが一般的ですが、私が思うには少し解釈が違います。
晴れた日に富士山が姿をあらわすと、その美しさに感銘を受けるのは日本人だけではなく世界中から訪れる観光客も同じです。一方、天気の悪い日にその姿が望めないとちょっとがっかりするというのも人の心理です。しかし、その姿が目に見えようとも見えまいとも、確かに富士の山はそこに泰然として存在している、というのがこの歌の言わんとしているところだと思っています。
毎日の生活の中で良いことがあるとうれしいと感じますが、いいことばかりは続きません。必ず悪いことも起きます。それが「運」であったり「自業自得」であったり要因は様々ですが、嫌なことはしょっちゅう発生するし、いつもいつも健康でいられるわけでもなく病気になることもあります。
この歌の言うところは、自分の人生に良いことがあっても、悪いことがあっても、そのたびに一喜一憂するのではなく、自分というものの実体である“魂”は常に厳然として存在しており尊いものである、と伝えているように感じます。そうしたことに思い至れば、たとえ人生に良くないことが起きても「ああ、生きていられるだけで幸福だ」と感謝する気持ちになれますね。
「晴れてよし曇りてもよし富士の山」この歌にはそんな気持ちが込められていると私は思います。