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このような行き過ぎた規制、本来は我々の命を守るはずのルールが、意図せず我々自身の不利益となって跳ね返ってきてしまうという事例は何かを思い起こさせます。個人が特定できる情報を第三者に開示してはならないと解釈されている、あの「個人情報保護法」です。
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この法律というか、法律を取り巻く一つのいわゆるブームにより、学校ではクラスの名簿や同窓会名簿などを作ることを手控えるようになり、お役所や企業では自分たちがサボタージュするための言い訳として便利に利用しているのが実情です。
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たしかに郵便ポストに多くのDMが投函されたり、知らない業者からセールスの電話がかかってきたりするのは行き過ぎると不愉快ですが、場合によってはそれを利用することもあります。個人情報というのはどの程度重要なものなのか、個人情報を提供することによって得られる利便性を考えると、もしかするとそれほど重要ではないのかもしれません。
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実際、このような法律ができる前から個人情報はダダ漏れでした。私の父が亡くなったのは2002年ですが、その当時でも、父が亡くなって2日後には大手デパートや進物業者から葬儀用の香典返しなどのカタログが届いて、不気味に思ったものでした。子供が七五三を迎える時には写真館から、子どもが女の子なら桃の節句、男の子なら端午の節句にひな人形、五月人形のDMが来たという経験を持つ人も多いでしょう。いまさら個人情報を後生大事に守ってもそれほど大きな意味はないと思います。
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この法律の恩恵はどの程度あるのでしょうか。それにより失われている利便性にはどのようなものがあるのでしょうか。個人情報を漏らすなと規制をかけるよりも、そうした情報を悪用する者を厳しく取り締まる方が先だと思います。
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今の日本人は、どうもこれが法律だといわれると無条件に従う風潮があるように思えてなりません。本当に個人情報保護法の意味を理解している人はごくわずかだと思いますが、
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まだ写真機が日本に伝わって間もないころ、一般の人々の間では「写真機で自分の姿を撮影されると魂を抜かれる」などという迷信が巷間で取りざたされたそうです。これなど、今だからこそ馬鹿げたことだと笑い話になりますが、当時の人にとっては空恐ろしいことだったでしょう。
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それまでは、直接会うことでしか自分の姿を相手に情報として伝えることがなかったのに、一瞬にして自分の顔や姿かたちを寸分たがわず転写されて写真となり、それが他人の手に渡り、自分が見られることを意図しない第三者に閲覧されるのですから、現代人が個人情報の流出に対してアレルギーを感じるのと同じ恐怖を感じたからこそ、このようなうわさが流れたのでしょう。そう考えると、魂を抜かれると信じた昔の人々を笑うことはできません。
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現在の個人情報に対する腫れ物に触るような態度は、何か得体のしれない物に対する恐怖といったものでしょうか。昔、パソコンがまだ出始めたばかりの頃、コンピュータウィルスが家庭用のコンセントから(パソコンのAC電源を経由して)侵入してくると思っていた人もいたそうですが、実態のよくわからない物に対しては恐怖感が増幅するものです。
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日本の世の中の流れを見ていると、何か法で規制されていなければ極端に無節操な行動に出る半面、一旦法律などにより規制がかかると必要以上にそれを恐れて縮こまるという困った性質があるように思えます。