【2010年5月10日の朝礼でのスピーチより】
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休日に子供二人はプールに通っているがまだ小学生と幼稚園生なので親も同伴しなければならない。その帰り、途中で昼食を取ろうとして妻が子供たちに聞く。
「何が食べたい?」。上の子は「何でもいい」、下の子は「カレーがいい」、しかし妻は「カレーは食べたくない」。最初から駅前の富士そばにでも連れていけばよいのだが、なまじ「何が食べたいか」などと聞くから話がまとまらなくなる。
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仕方なく、駅ビルにある家族亭のそばランチならおもちゃをつけくれるので、おもちゃで釣ってそこへ連れていく。これでコストは富士そばの倍となる。
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店は昼時なので混んでいるのでテーブルに着くまでしばらく並ばされてしまう。ようやく席に着くと子供たちはがっつくようにおもちゃを選ぶが、すぐにこれはつまらないだの、あれが無いだのと文句を言い始める。わざわざここまで遠回りして、私の両手は子供たちのために図書館で借りてきた20冊の本の重さでしび
れている。おもちゃに対する興味はそれを選び終わった時点でおしまい。こんなものである。
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子供用のそばランチにはフルーツポンチが付いている。上の子が全部平らげたので、下の子が残したフルーツポンチを「頑張って○○ちゃんの分も食べて」と妻が言うと、上の子は、「もう食べたくない」という。「どうして、フルーツポンチは大好きでしょ、給食でもいつも喜んで食べるじゃない」と妻。すると、「で
も給食で出るフルーツポンチとは果物の味が違うからいやだ」という。
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いまどきの給食は、全国にチェーン展開している有名そば店のものよりよほどおいしいらしい、ぜいたくな話である。私が子供のころの給食というのは、栄養価
のことが最優先で味などは二の次だったし、子供が生意気にこれはおいしいだのまずいだのというと、親からひどく叱られたように思う。
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それにしても、私が小学生だった昭和40年代の学校給食はひどかった。牛乳などはどうにもかび臭いことがままあり、給食当番として残飯をかたづける際に飲
みかけで残された牛乳を流しに捨てる時にその色に驚いたことがある。当時、まだガラス瓶から三角パックに移行したばかりのころだった。それまでのガラス瓶
とは違い、普段中の色は見ることができない。その三角パックをギュッと押しつぶしながら細い飲み口から飛び出す牛乳の色を見ると、ひどく黒ずんでいたので
ある。腐っていたのかカビが混入していたのか知らないが、当時はそんなことがあっても別に問題にもされなかった。
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ある日、給食のおかずにトン汁が出た時のこと。トン汁をよそっていた男子生徒が突然叫び声をあげ、それと同時に女子生徒の悲鳴が聞こえた。よそわれた女子生徒のスープ皿の中を見ると、長さ2~3cmくらいの毛がびっしりと生えた豚肉の塊が転がっていた。
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人生で初めての給食でこんな牛乳が出てきたら、その人は二度と牛乳が飲めなくなるかもしれない。また、トン汁を見るたびに豚の外形が目に浮かんで食欲が0になってしまうかもしれない。
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私は酒飲みなのでホヤが好きであるが、人によってはあんなもの見るのもいやだという人がいる。話を聞くと、どうも初めて食べたホヤがたまたま鮮度が悪く
なっていて、その強烈なえぐ味がトラウマとなってしまっているのが原因だったりする。あれは確かにちょっとでも古くなるとものすごくきついにおいを発す
る。新鮮なホヤの味を知っている人ならば、そんなものには手を出さない。しかし、それが初めての人にとっては、古くて強烈なにおいがしても、それがホヤと
いうものだと信じて口に入れてしまうという不幸に見舞われるのである。以前に北海道電力の仕事で釧路に出張に行った時、北電の人たちと海沿いのちょっと
しゃれたお店で飲み会が催された。そこで、私の好物のホヤが出たのだが、食べようと鼻先に持ってきたときにどうも嫌なにおいがした。そこで、地元北電の人
に「これ大丈夫でしょうか」と聞くと、そのにおいをかぐなり、「うわ、これはだめっしょ」と顔をしかめた。元の味を知っていることはとても大切である。
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とにかく、自分が子供のころに比べて今の子供たちは恵まれてはいる。毎日のように外食だし、親は「何が食べたい?」とお伺いを立ててくれる。ステーキだ寿
司だ焼き肉だというのは当たり前で、もはや何を食べても何の喜びも見られない。こんなことでよいのだろうか。そして、いくら衣食住に恵まれていても我々の
子供のころよりも幸せかというとそうは見えない。昭和30年代、40年代の子供たちは、毎日ステーキが食べられたらどれだけ幸せかということを夢見てい
た。しかしそれが現実となった今の子供たちにはなんの感動も見られない。
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これは、今の子供たちに非があるわけではない。誰だって、生まれてきたときからもともと備わっているものに対して、いちいちありがたいなどとは思わない。
先天的に(アプリオリというらしい)備わっているものには感謝の念を感じないのは、普段我々が吸っている空気や蛇口をひねれば出てくる水に対して、それを
当たり前と感じ、ことさら感謝しないのと同じである。
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だから、我々大人が子供にしてやれることは、自分が子供だったときにこれが欲しかった、あれが食べたかったというようなものを子供に与えることではない。
普段は気がつかない多くの事物に対して、それらを得ることがどれだけ大変なのか、それらを失うことがどれだけつらいことなのかを身をもって知る機会を与え
ることなのではなかろうか。
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私が子供のころの給食はひどかったという話をしたが、それだって、戦争中の飢餓を経験した人からは罰あたりと怒られるだろう。しかし、世の中が進化してい
くら物質的に豊かになっても、人の幸福感はあまり変化していないのではないだろうか。これだけ豊かになっても毎年自分で自分の命を絶つ人が毎年3万人もい
るのである。早い話が、物質的なものをいくら追い求めても幸せにはなれないということである。今あるものに感謝する、今の状態を作ってくれた人々に感謝す
るという謙虚な気持ちがなければ、人は幸福にはなれないのではないだろうか。
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あれが欲しいこれが欲しい、時間が足りない、金が足りないと不平不満ばかり言っている人には、真の幸福は訪れない。