明けましておめでとうございます。関東地方は穏やかなお正月となりましたが、皆様の地域はいかがだったでしょうか。「一年の計は元旦にあり」といいますが、若いころはこの言葉にあまりピンと来ていませんでした。なぜなら、10代、20代のころの自分にとっては1年というのはとても長い時間であり、1月1日に何か目標を定めたところで1年間という長い間その目標を持ち続けるということに現実味が感じられなかったからです。
しかし、年齢を重ね30代、40代、あるいは50代を過ぎてくると、1年というのがあっという間に過ぎ去るものであると実感するようになります。すると、1年前のことがつい先日のように錯覚することもままありますから、1月1日に何かしら目標を立てて、1年ごとに振り返るというのがそう長いスパンではなくちょうど良いインターバルのように思えてくるわけで、この言葉の意味もそれなりに「ああ、確かにそうだなん」と腹に落ちてくるのであります。

さて、そんなわけで私なりに昨年は「信念」というものを自己の心を作り上げる目標としておりましたが、今年は「勇気」をその次の目標として1年間掲げて行こうと思っております。
「勇気」それは誰にでもあるものですが、人によってあるいは同じ人でも時と場所によりその「勇気」の発現する度合いが異なってきます。若いころは向こう見ずで怖いものなどなかったのに中年を過ぎてからどうも臆病になったとか、独身の頃は矢でも鉄砲でも持って来いというくらいな強い気持ちだったのが、所帯を持った後ではどうも経済的なこととか健康面のことなどが気にかかり、なんだか人間のスケールが一回りも二回りも小さくなったように自分次人が感じられたりするというのは多くの人が経験することでしょう。

少年のころ好きだったマンガで、空手家の生涯を描いた「空手バカ一代」というものがありました。この漫画で語られる大山倍達という実在の人物の生き様に少年たちは胸を熱くしたものです。この大山倍達がまだ少年のころに近所の武道家に武術を習うというシーンがありました。その先生が目の前の大きな木を指さして曰く、「あの木の枝をお前の飛び蹴りで蹴って見ろ」。しかし、その木の枝は誰がどう考えても倍達少年には届かない高さであり、彼がどれほどの運動神経を持っていたとしても100%不可能です。
しかし、倍達少年は言われた通りその木の枝に向かって跳躍しチャレンジします。当然ながら足ははるかにその枝には届きません。しかし、この先生はその倍達少年に対して、「それでいい、できるかできないかを考えるのではなく、まずはやってみるというその姿勢が大切だ」と 褒めるのでした。この話はもう何十年も前に読んだものであり、それ以来再度読むことなどもなかったのに、なぜだかこのシーンが未だに私の脳裏に焼き付いています。

人間は年を取り経験を積むことで次第に臆病になっていくのかもしれません。また、一般に頭が良いといわれていて学校の成績の優れた人の方が冒険ができずこじんまりした人生で終わるようなケースが少なからずあるという気もします。
私も今年で55歳となり一昔前なら定年となる歳ですが、気持ちは少年のころと全く変わっていません。まだこれから人生の始まりという気持ちで「勇気」を持って人生に勇往邁進していきたいと思っています。

<元日にお参りした池上本門寺の様子です>

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池上本門寺仁王門 池上本門寺本堂

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